「正常さ」という病い(アルノ・グリューン)について
アルノ・グリューンはぐぐってもあんまり情報が出てこない。Wikipediaには日本語のページもない。
この記事は内容と感想の備忘録として。
どんな本?
本の情報より。
著者アルノ・グリューンは1923年ベルリン生まれの精神分析家。この生まれ年は奇しくもアリス・ミラーの生まれ年と同じである。
1936年にアメリカに移住し、1961年にテオドール・ライク(この人も有名な人らしいが全然知らない…)のもとで精神分析家の資格を習得。
以降教職・診療・執筆業に精力的に取り組んだという。
(1979年からはスイスに移住。ミラーも1946年にスイスに移住しており、ここにも共通点がある)
この本は1989年に出版され、日本語に訳されたのは2001年。
訳者は馬場謙一・正路妙子、出版社は青土社。
本の内容は、社会に生じる暴力、悲劇、破壊、狂気の源泉を子ども時代の抑圧に見るというもの。その例として、例えばナチス・ヒットラーのホロコーストなどを挙げている。
…と、私のブログの他の記事を読まれたことのある人なら察しがつくかもしれないが、アルノ・グリューンの主張をざっくりと捉えるとアリス・ミラーの主張と重なるところが多いのである。
両者ともフロイトに批判的だったり、文学や芸術の持つ力を高く評価しているところとかも。
ただし、グリューンの説明とミラーの説明は違う言葉を使っていたり、当然主張自体にも異なっている部分がある。
何より、グリューンはこの本の中でミラーを批判していたり(ただし、この点には注意すべき部分があると思っている。詳しくは後述)と、両者には違いがある。
念のため。私に精神分析に対する専門的な知識はないので、ここまでの記述およびこれからの記述に基礎的な部分に対する誤りがあることは十分に考えられる。
なので、この記事は単なる一読者の感想程度のものとして書いているし、そう読んでいただくのが良いと思う。
もし詳しい方が読まれていて、何か重要な指摘があればTwitterの方にでもこっそり教えてください。
感想/内容で重要な部分
ここからは、このブログに関連する部分に関する感想みたいなもの。
自己に対する裏切り
「自己に対する裏切り」とは1984年に出版された著者の本のタイトルでもある。
幼児期に「本来の自己(=ありのままの自分)」を親に認めてもらえなかった者は、「親の望む姿(=偽りの自分)」を身につけざるを得なくなる。
そうすると、その人の内面では「本来の自己」との断絶が発生することになり、
外面には一見すると“健康で””従順”という「正常な」外面が出現するが、それは内面との統合がなされていないため、真の意味においては「病的な」ものである。
こうして、「正常な」人間は、外面がいくら“従順”で“善良”であっても他者に対する共感性を失い(共感は本来の自己から生じるものである)、内面には断絶のもたらすやむことない怒りと憎しみが生じることになる。
この断絶を、著者は「偽りの自己の形成」とし、この過程を「自己に対する裏切り」と指摘する。
この怒りや憎しみが、社会に降りかかる暴力や破壊の源泉になるのだという。
精神病質者と精神分裂病者
ここまでのことは、アリス・ミラーと非常に重なっているように思う。
安冨歩さんが言うには、グリューンとミラーの違いは「子どもに対する大人の操作の動機」だと言う(ミラーはその動機とは復讐だとしている。「複雑さを生きる」p92-93)。
私はグリューンの読解が足りていないので、まだこの違いは自分の言葉で説明できるほどちゃんと認識できていない。
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追記:2022年2月17日
繰り返し読んで、少しは違いがわかってきた。
この記事で後述しているが、著者(の論点)は特に、現在の社会では「おかしいこと」が「正しいこと」と真逆に理解されていることを厳しく批判しているのだと思う。
論語で言うところの「名を正す」だろうか。
ここはミラー以上というか、ミラーと明らかに異なる部分だと思う。
ミラーもそうしたことを言ってはいるけれど。
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私が著者の主張で“しっくり来た”のは、精神病質者と精神分裂病者の区別である。
精神病質者とは、この社会で「正常」とされる人たちのことである。
この社会では「自己に対する裏切り」こそが「良いこと」であり、それが「現実主義者」「理想の姿」であるという考えが支配的である(従順さ、男らしさ、強さの理想化・誇示、など…)。
だが、ここまでに見てきたように「自己に対する裏切り」をしている人は内面との統合がなされていない、断絶した外面を持つ、共感性を失っている人である。
この断絶を指して、著者は精神病質という言葉を当てはめる。
タイトルに「正常さ」という病い*1という言葉が冠せられているのも、ここゆえだと思われる。
現在のこの社会では「まとも」でいることこそ病的なことである、と。
この反対の概念が、精神分裂病者である。これに著者は、言葉の登場頻度に反して「具体的な事例」をあまり挙げて説明していないが、読んだ限り“いわゆる”精神病者のことである。
「ふつう」においては、そうした人たちこそが「病んだ人」と認識される。
だが著者は、彼らは「まとも」であるがゆえに「自己を裏切ること」ができず、その抵抗として精神世界に逃げ込んでいる、のだと指摘している。
そこから発せられる暗号じみたメッセージが「精神分裂病」であり、ゆえにこのことは「統合への欲求」であるという。
つまり、精神分裂病者とは精神病質者と明確に反対の態度なのである。
ただし、繰り返しになるが、今の社会では精神病質者こそが「まとも」であり、精神分裂病者が「分裂している」と認識されている。
責任を取るということ
著者が精神病質的な「正常さ」を批判するのは、それがいつまでもやむことのない怒りや憎しみを生み出し、それがいずれ自他の生命や社会を破壊するからである。
また、著者によると、この「自己に対する裏切り」とは服従を意味するという。
外的な権力に自らを委ねる=服従、であると。
この服従とは、受け入れた側の復讐でもあると著者は言う。
服従とは、
「私はあなたの支配を受け入れる代わりに、あなたは私の世話をしなければならない」というメッセージ
であり、
私はこれは共依存的な関係と感じた。
だから、そこから解放されるための唯一の道として、著者は自己背信についての苦痛と向き合うこと(p22)を指摘する。
つまり、真の解放とは「受動的」に癒されるのではなく、苦しんでいる人自身が「主体的」に服従−−−自己に対する裏切り−−−についての責任をとる、ということである。
ここでいう「責任」とは、罪に対する罰ではない。
自らのありようを将来に対し開き、変えていく、という態度のことである。
このことはつまり、屈辱を受け入れることで相手から資源を引き出すという「病んだ関係」を、自ら手放していかなくては真の回復には辿り着くことはない、ということだろうか。
これは、ハーバート・フィンガレットの主張(「生きるための経済学」安冨歩、p55〜)とも重なると私は感じた。自らのありようを自ら改めることだけが、将来の可能性を開く、という。
この過程のみが、真の意味での解放であり回復である、と著者は言うのである。
アリス・ミラーに対する批判
内容に対する簡単なまとめはこれくらいにしておいて、ここからは感想や気付きなど。
まず、アリス・ミラーに対する著者の批判について。登場するのは、分量としてはほんのちょっとである。
しかし、テーマの類似性を意識していた私にとってこの批判の出現は、正直面食らってしまった。
ちなみに、著者は同じ部分でミラーの研究を重要で意義深いとも言っている(p21)。
批判しているのは、
(前略)彼女は、幼児期の決定的な影響に対する理解が、あたかももう治療をもたらすかのような論証をしている。しかし実際は、患者は変わる必要もなく、治療的な理解の鏡*2の中で淫らに楽しんでいることになるだけだ。そして治療者は、みずからを良い母親のように感じることによって、患者を自分に依存させてしまったことを認識する必要もない。
(後略)(p21)
こうした「理解」に対する態度の違いについてである。
この批判は、「責任をとる」までが回復の過程であるとする著者の姿勢とも整合するものである。
そしてもう一つの批判は、治療者と患者との関係性について、であろう。
これは両者が精神分析家として治療に従事していたこととも関係しているはずである。
私のイメージのズレ
ただ、私の読んだ感想を言っておくと、著者の批判はミラーの主張と食い違っている気がするのである。
ミラーは過去の体験は言葉として理解するだけでは足りず、情動として「体験」しなければ回復には至らない(ミラー、山下公子訳、1996)と、
別に「理解するだけで治る」とは主張していないように感じられる*3し、
彼女の同じ本の中で語られている療法家の態度やありように対する注意や視線は別に「良い母親」的でもないように思う。
才能ある子のドラマについて
ここで私が気になったのは、著者が参照しているのが「才能ある子のドラマ(Das Drama des begabten Kinds/1979)」(原註10より)である点である。
これはミラーの1979年の最初の著作である。原註によると、著者が引いているのはこの本(この版)である。
だが、訳者あとがきによると、この本は出版から15年後(1994年)に大きく改訂されているそうなのである。
ミラーは改訂に慎重な作者であるらしく、ゆえに訳者はこの改訂には軽からぬ意味があったはずであると推測している。
私が読んだのはこちらの1994年版(=新版)である。
この改訂が、私の感じたズレに何かしら影響を与えているような気がするのである。
この改訂においては、初版で紹介されていたある療法にまつわる記述が大きく削除され、また、精神分析家に向けて書かれている傾向の強かった初版に対し、新版ではその語り口は「非専門家」の読者に向けたものになっているという。
また、ミラーは1985年以降自身の立場について、自ら、それまでの立場と区別するようになったという。これらのこともまた、私の感じたズレに関係がある気がするのである。
とはいえ、訳者はミラーの主張は立場は変えども一貫しているとも書いている。
なので、実際のところ私の感じたグリューンとミラーの「ズレ」は単に私の気のせいという可能性もある。
もちろん、一番は翻訳ではなく全ての原典にあたるべきで、そうすればこのズレは氷解するのだろうが、残念なことに私にそんな根気はない。
なので、どなたか知っている人がいたら教えてください。
<時系列>
1979年:ミラーが「才能ある子のドラマ」(第1版)出版
(1984年:「才能ある子のドラマ」の日本語訳出版/訳:野田倬)
1985年:この年を境にミラーは自らの立場を以前/以降と区別するようになる
1989年:グリューンが『「正常さ」という病い』出版【←ここでミラーを(/「才能ある子のドラマ」を)批判している】
1994年:ミラーが「才能ある子のドラマ」を改訂(新版)
(1996年:「才能ある子のドラマ」(新版)の日本語訳出版/訳:山下公子)【私が読んだのはこれ】
(2001年:『「正常さ」という病い』の日本語訳出版)【私が読んだのはこれ】
以上、読まれた人の中に、もしかしたら私と同じような感じを受けて疑問を抱いた人や、勘違いが起き得るかもと思い、この点について触れておいた。
男性性に対する批判
他にも私の目を引いたのは、著者が「男性性」に対して批判的である点である。
それは例えば「5 適応、反抗、そして暴力」や「7 精神病質者とペール・ギュント」といった章で語られている。
かいつまんで言うと「男らしさ」は内面との断絶(=自己に対する裏切り)を招きやすく、またその発見を困難にするようなイデオロギーであるからだという。
心的障害についての最近の研究のひとつが、男性と女性の間の違いを確認していることは特徴的である。男性神話は、陰険で強靭な生命力をもっており、男性が自分の内面と結びつくことを妨げる。それゆえに、男性の精神病理は、女性の場合よりもはるかに頻繁に、反社会的な行動となって現れる。女性はむしろ自分自身との闘いに巻きこまれている。自分の問題を処理できなくなると、女性の八倍の男性が暴力行為に走る。女性の四倍の男性が、アルコールあるいは薬物依存に陥る。他方、男性のほとんど二倍の女性が抑鬱的で、男性の二倍以上の女性が精神分裂病にかかっている*4。内的な抗争の中で、彼女たちは心的に困難な状態に陥り、男性の方は内的なものから切り離されて、復讐欲に満ちて闘いを外部に向け、そこでの救済を願う。
それゆえに、精神病質者になるのは男性たちの方がはるかに多い。強さについて彼らが信じている神話が狂気を育てるのだが、この狂気は精神的に健康であるかのようなカムフラージュをしているがゆえに、その危険性は長い間認識されなかった。(p249-250)
この主張は最もだと思うのだが、ただ、私が引っかかったのは、
精神病質者になるのは男性たちの方がはるかに多い
という部分である。
著者は別の箇所で、女性もまた男性性(男性神話)を内面化すると指摘している。
また、「自己に対する裏切り」へと追い込まれる(/精神病質者へと追い込まれる)子どもに、男女の区別はないはずである。
これらの条件があって、男性の方がはるかに精神病質者になりやすいということがあるのだろうか?
例えば、この理屈を単純に受け止めればファシズムの支持者は男性の方が多くなる、なんてことになりそうだがはたしてそうなのだろうか?
確かに、男性の方が暴力的な行為に走るのは感覚的には納得がいく。
それは女性に比べ力が勝っているため行使しやすく*5、また、力の行使そのものが「男らしさ」として“ある意味”許容されているからであろう。
ただ、暴力とは力の行使だけでなく、モラル・ハラスメント(イルゴイエンヌ)といった「見えない暴力」も含むはずである。これもまた社会に対する脅威である以上、反社会的行動の一つであろう。
それを行使するのは、決して男性だけではあるまい。それも含めると、
女性の八倍の男性が暴力行為に走る。
とまでは言えなくなるのではないだろうか?
また、依存症についても、その対象の範囲を広げたら(アルコール、薬物以外にも性、ギャンブル、買い物、ゲーム、整形など…)、性差は小さくなっていくのではないだろうか?
ここは知識がないので全く自信はないけれど。
最後に、女性の方が二倍も抑鬱的で精神疾患を発症しやすい、というのも、現在の社会では女性の方が「病気として捕捉されやすい」ということの影響があるように思ってしまう。
ただ、簡単に調べたところだと、結局まだ信頼できるような調査結果が少ないため、このことが生物学的性差によるものなのか社会的性差によるものなのかははっきりとはわからないようではある。
これらのことを考えると、やはり
精神病質者になるのは男性たちの方がはるかに多い
と言い切るには少し慎重になる必要があると思うのだけれど、どうなんでしょう?
私のような素人ごときの疑問なんか織り込み済みなような気もするが、どうなんだろう…
とは言いつつも、感覚だけで考えるなら私も男性の方が精神病質者的(=になりやすい)というのは実感に沿っている。
男性に対する「男らしさ」の抑圧の凄まじさとその「悪影響」は、私も感じるところがあるし、
女性の方が、例えば話が通じやすい(=精神病質的な不気味さがない場合が多い)のも、実感に沿う。
言うまでもないが、だから女性の方が楽だとか言いたいわけでは決してない。
比較の話ではなく、抑圧のかかり方とその表出、また、社会的に置かれた状況などが男女では違い得る、ということである。
最後に、疑問から話は変わるが、1989年の時点でこれだけ男性性に対して批判的であれたということに私は衝撃を受けた。
イメージでしかないけれど、まだその頃は“ジェンダー”なんて今よりも遥かに注目なんかされてなかっただろうに*6。
例えば我が国なんて2000年代でもまだまだ怪しいというのにね。
(例えば、「いま親にいちばん必要なこと」(春日耕夫、2010、東信堂)の第三章における批判が詳しい)
そういえば、本の中で日本について言及されている部分があるのだけれど、「順応に極めて強度の基礎をおく社会構造をもった国(p170)」なんて立派な褒め言葉を頂戴している。
増加する学校でのいじめの例を引きつつ、ある教師が子どもたち(おそらく6年生)に書かせた「あと五日間しか生きられなかったら何をするか」という作文に現れたいくつもの暴力的で破壊的な内容を元に、「子供たちにとって唯一大切なことが殺害であるように見える。(p171)」と指摘する。
……そういえば私が小学生の、上記の作文を書いた子たちと年齢と同じくらいだった頃、クラスで「自殺を考えたことがあるか」というアンケート*7があった時に、ほぼ全員が「ある」と答えていたことを思い出す。
私は「死ぬ」のが今も昔も怖いのだが、その時は同調圧力に負けて「ある」と嘘をついてしまった。
みんな、今もどこかでどうにか生きているのだろうか?
おわりに
私がブログを書いている動機は、紹介する本、漫画を多くの人に読んでみて欲しいという動機である。
とても微力ではあれど、「誰かが紹介すること」が、最も力を持った形で作品を広げることの一助になると信じているからである。
その上で言うけれど、私はこの本を読んで具合が悪くなった。
中〜後半は本や著者の語り口(/言いたいこと)に“慣れてきて”大丈夫になったが、前半がとにかく駄目だった。
その後の顛末【※注意喚起も含めて※】
著者の言いたいことはわかる。主張にも納得できる。
でも、人間そんなに強くなれないよ…なんて思ってしまうのである。
詳しくは書かないし、素人が判断を下すのは危険なので曖昧に留めておくけど、私は明らかに「精神分裂病者」“的”であり、だから、有り体に言うと、この本を読むとなんだか責められている気持ちになるのである。
「お前は現実との折り合いをつけられず、外の世界と戦い生き抜いていく力が足りていない(落伍者だ)」*8と言われている気持ちになる。
でも、こんな「病んでいること」が「まとも」とされるクソゲーみたいな現実で、どうやって折り合いをつけて生きていけと?
おまけに、これまでにこんな世界を作ってきた人たちはのうのうと何の責任を果たさずにいるのに?
「精神病質者」になるよりは何倍もマシなんだろうけど、それがあんまり救いに感じない…
……そこから、こうした泣き言を言いたくなる、というのはまさに著者の言う「自己憐憫に浸る」ということなんだろうか。
というか、「精神分裂病者“的”である」ことを「恥」だったり「責められている」と感じるのは私が社会の「まとも」に従っているからで、
それはつまりいくら「精神分裂病者」“的”であっても「精神病質者」“的”な部分も併せ持っている*9、ということなんだろうな。
そうなんだろうなぁ。
でもそんな風に逃げ道を塞がれると…きついよ…
とはいえ、著者はナチスをリアルタイムで目の当たりにし、その脅威を実際の出来事として体験しているであろうことを考えると、その切迫感がこうした迫力のある文章を書かせたのかな、とも思う。
あとは、
エイブラハム・リンカーンの逃亡兵の扱いについての話とか、
「精神病質者的」な服従をしていても、それが「服従しているふり」であれば、かろうじて自律性の能力を保ち続けることができる逆説的な可能性がある、
という話が興味深かった。
…みんな、これからは少しずつ服従はやめて、
せめて「服従するふり」に変えていって、
世界をもう少しマシな方向にしてこ〜よ。
まとめると、最後愚痴が混じってしまったけれど、この本は
安冨歩 → アリス・ミラー
と辿っている人は特に読むのをおすすめしておきます。
私がこの記事で触れているのは本当に本の内容の一部でしかないので。
他にもいっぱい重要な指摘がある。
「生きる技法」(安冨歩、2011、青灯社)では「人はなぜ憎しみを抱くのか」(渡辺真理・上田浩二訳、2005、集英社新書)の方をおすすめしてあったので、私は次そこに行こうかな。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
それでは〜。
参考文献
春日耕夫『いま親にいちばん必要なこと』2010,東信堂
アルノ・グリューン,馬場謙一・正路妙子訳『「正常さ」という病い』2001,青土社
アリス・ミラー,山下公子訳『才能ある子のドラマ(新版)』1996,新曜社
安冨歩『生きる技法』2011,青灯社
*1:原題は「正常性の狂気−疾病としての現実主義、人間の破壊性に関する基礎理論」
*2:「才能ある子のドラマ」の章に「鏡」という言葉が登場している。ここを念頭に置いているのかも
*3:グリューンより幾分か楽観的なのはそうかもしれないが
*4:原註203。L.N.Robins u.a.: Lifetime Prevalence of Specific Psychiatric Disorders in Three Sites, in: Archives of General Psychiatry 41,1984.
*5:ただし、当然行使される対象は女性だけとは限らず、同じ男性に向けての場合もあるだろう
*6:今だってどうなのだろうか
*7:しかも、生徒の側から自発的に行った“お遊び”のアンケートとして!
*8:被害妄想的だなぁ…
*9:というか、純度100%の人とか実在しなくて、実際はあらゆる人がこの両者のミックスなのだろう