「責任」はとることができない
わたしは責任をとらなければならない。
ここで言う責任とは、
人間の行為が自由な行為であり、その行為の原因が行為者にある場合に、その行為ならびに行為の結果に関して、法的または道徳的な責任が行為者に帰される。(日本大百科全書)
というような、結果という「罪」に対する「罰」としての責任のことではない*1。
「自己に対する裏切り」によって生じた責任(アルノ・グリューン)である。
それは自分のありようを改めるということで、つまり、わたしは「わたしに対する裏切りの態度」を改めなければならない、ということになる。
なぜそうしないといけないのかと言うと、わたしが苦しいからである。
法的に、道徳的に必要だからとかではない。
この「苦しみ」があると何だか生き辛いので、生きていくためにはそれを何とかしなければならない。
その苦しみを生じさせているのは、突き詰めると、わたしである。
だから、わたしがどうにかしなければならない。
…なんてことを真面目に考えていたら、おかしくなってしまった。
無理です、責任をとるなんて。
話を少し変える。
ハーバート・フィンガレットというアメリカの哲学者は自己欺瞞(=無意識の作動)を無条件に非難しないという。(安冨、2008)
それは時に堪え難い災厄から身を守るための「心理的に必要なこと」*2である、と。
それはそうだ。
例えば時間が解決してくれることは、ままある。
つい「後回しにしたり」「一度見なかったことにする」のは、
困難に対して、人が長い時間の中で身に付けた一つの知恵であろう。
フィンガレットによると、この無意識の作動が
「自己欺瞞」という“悪用”か
「心理的に必要なこと」という“作動”かは
状況によって決まる
という。
このことをグリューンの理論に当てはめると、
「“最初の”自己に対する裏切り」(=幼少期に、親の望む姿を受け入れること)
はきっと「心理的に必要なこと」に当てはまるだろう。
子どもは、親がいないと生きていくことができないのだから。
だから、自分を裏切ってでも、親の望む姿という「外部の規範」に服従せざるを得ない。
これは、生きていくのに必要な“作動”とみなしても良いだろう。
アリス・ミラーも、そんなことを繰り返し言っている。
ただ、問題になるのは「服従を否定すること・続けていること」であり、
それはつまり
「ありのままの自分を認めていないこと」
を認めなければならない
ということである。
ありのままの自分を認められないのは、人間だから時には仕方ない。これは、「必要な作動」である。
しかし、認めていないことは「認めなければならない」。
それらを「見なかったことにする」のは「自己欺瞞」という“悪用”になる。
これらは論語で言うところの、
「過ちて改めざる、これを過ちという」
と重なるであろう。
わたしもこの考え方はもっともだと思い、真面目に考えてみることにした。
そうすると、先述のようにすっかり調子を崩してしまった。
冷静に考えたら当然だったのだ。
どうにもならないからこうなっているのであって、
それを無理にどうにかしようと思ってもどうにかなるはずがないのだ。
話はやや飛躍するかもしれないが、私は人間の能力というものを信じている。
「生命の持っている創造性に根ざした合理性」とでもいうものは誰にでも備わっているはずで、
「どうにかしないといけないもの」を人間はちゃんと(無意識において)どうにかできるし、日々どうにかしているはずなのだ。
だから、それでも残っている問題というのは、
すべからく「自分ではどうにかしようと思ってもどうにもならないもの」になるはず
である。
それを「どうにかしよう」と思っても、「思う」ごときではどうにもなるはずがない。
ただ、そこでシニカルに諦めるわけにはいかない。
なにせ、この苦しみをどうにかしないと生きていくのに支障をきたす、というか、きたしている。
わたしがそんなイマイチな体調の中で辿り着いた考えは、
そもそも「責任をとる」という考え方が間違っていたのだ
というものである。
グリューンやフィンガレットを否定しているのではない。
むしろ、全面的に立脚している。
「わたしを苦しめる態度」は、わたしが改めるよりほかにない。
ただ、責任を「とる」ことはできないのだ。
その根拠を、再びフィンガレット、安冨歩さんに求めることにしよう。
わたしたちの行いは常に、意識と無意識のミックスによる「そうなってしまう」という形で行われている、という。(安冨、2008、p59-60)
そこから考えると、責任を「とる」という主体的な行いもまた幻想であり、
実際には「とってしまう」という形でしか、わたしたちは責任をとることができない*3
のではないだろうか?
だから、わたしがしなければならないのは、「責任をとること」ではなく
「責任を“つい”とってしまう」場所へ
わたしをもっていく
ことなのだと思う。
具体的には信じられる他人、特に友達に頼るほかない、と考えている。
ちなみにこのことは、「生きる技法」(安冨歩)という本を念頭に置いて考えている。
体調不良が出現した時、わたしを助けてくれたのは友達だった。
友達はわたしの混乱している話をただ聞いてくれ、お陰でわたしは内面を静かに見つめ、いろいろ考えることができた。
また、家族が無条件に気遣ってくれたことも有り難かった。
誰か一人でも「ありのままの気持ち」を認めてくれないと、人は自分と向き合うことなどできない。(こうしたことは例えばミラー、2004 がわかりやすく詳しい)
責任をとる、とは、自分と向き合う作業である。
自分と向き合うためには「誰か」…しかも、それは「信頼できる誰か」が必要である。
そうした作業を手伝ってくれるのに一番ふさわしい相手は、友達だろう。
というか、こうした作業を手伝ってくれる人を指して「友達」と呼ぶのだろう。
そのような状況が揃ってはじめて、人は「責任をとってしまう」という五分五分の危険な賭けに出ることができるようになるのではないだろうか?
そしてその「危険な賭け」に勝った時に、人は自然と「責任をとってしま」えているのではないだろうかと、希望を抱いている。
他人が必要な理由は他にもある。
1つ目は、そもそも他人がいないと「わたし」というものがわからないからだ*4。
他人とわたしとの間に、「わたし」は現れる。(安冨、2006)
2つ目は、「とってしまう」という行為にも、やはり「自己欺瞞」の問題が付きまとうからだ。
本当は「責任をとっていない」のに「責任をとった」と新たな自己欺瞞を行なっては意味がない。
それに関連することとして、「責任とはとってしまうもの」という考え方は
「わたしが責任をとれないのは周りが悪いせいだ」という自己欺瞞の出現を許す
ことを考える必要がある*5。
この「新たな自己欺瞞の出現の可能性」が持つ意味とは、
結局は「どこの時点で自己欺瞞を峻別するか」という問題である
ということであろう。
つまり、どこまでいっても
問題の中心は「自己欺瞞を自ら峻別する」こと
になるのである。
それを峻別できるのは、自らの感覚以外にはあり得ない。
自らの感覚を信じるには、やはり他人の助けが必要である。
それを助けてくれる人もまた、友達だろう。
私は奇跡的に(?)そうした友達が現実において一人いてくれた。
お陰で、こうしたことを色々考えることができている。
また、この対談によると、友達とは永続的でも恒常的でもなくてもいいし、何なら別に人間じゃなくてもいいらしい。
一瞬でも助け・助けられたという関係性のある対象を、友達という。
そこから考えると、私は漫画に助けられたと思っているから、私にとって漫画とは一人の友達なのかもしれない。
また、漫画という「良い友達」が「新しい友達」を連れて来てくれることをほんのりと期待して、このブログは書かれていたりもする。
はじめて訪れた人ははじめまして。
いつもの人はいつも読んでいただいてありがとうございます。
参考文献
アルノ・グリューン,馬場謙一・正路妙子訳『「正常さ」という病い』2001,青土社
アリス・ミラー,山下公子訳『闇からの目覚め』2004,新曜社
安冨歩『生きる技法』2011,青灯社