【ポケスペ考察】マチエールは救われたのか?
■XY編の登場人物であるマチエール。
彼女はゲーム版にも登場するが、ポケスペではある設定に大きな変更がある。その違いを考察してみる。
はじめに
はじめに、今回、考察のためのやむを得ない範囲での“ネタバレ”はご了承いただきたいことを述べておく。
なぜこんなことをわざわざ言うかというと、メインテーマとして取り上げるマチエールの「仕事」が、
考察において重要な要素であるとともに物語上の重要なギミックでもある
からである。
よって、未読・未プレイの人は注意されたし。
ゲームとポケットモンスターSPECIALのマチエールで共通しているのは、「エスプリ」というフレア団の協力者の一面を持っていることである。
エスプリを名乗る際には、フレア団の科学者クセロシキの開発した「イクスパンションスーツ」なる多機能・能力強化スーツに身を包み、その能力を駆使して暗躍する。
ただし、ここには一つの重要な要素がある。それは
エスプリである間はマチエールの精神は催眠によって眠りについている
という設定である。
その間はAIが行動を司り、マチエールはエスプリの“中身として”、いわば身体を貸しているに過ぎない。
つまり、
エスプリの行いはマチエールの意思によってなされているとは言い切ることができない。
ここに対するアレンジ・解釈が、ゲームとポケスペでは大きく異なっている。
この違いは、重要である。
何だかモヤモヤしたゾ
なぜこのことを重要視するかというと、責任という問題があるからである。
人間の行為が自由な行為であり、その行為の原因が行為者にある場合に、その行為ならびに行為の結果に関して、法的または道徳的な責任が行為者に帰される。(日本大百科全書)
責任においては「自由」が前提となり、「自由」とは、自らの意思(による振る舞い)のことである。
- 自分の意のままに振る舞うことができること。また、そのさま。「―な時間をもつ」「車を―にあやつる」「―の身」
- 勝手気ままなこと。わがまま。
- 《freedom》哲学で、消極的には他から強制・拘束・妨害などを受けないことをいい、積極的には自主的、主体的に自己自身の本性に従うことをいう。つまり、「…からの自由」と「…への自由」をさす。
- 法律の範囲内で許容される随意の行為。(goo国語辞書)
ここから考えると、
「エスプリの行い」はマチエールの意思によってなされていないので、
エスプリの行いの責任をマチエールに負わせることはできない
となるだろう。
「ゲームのマチエール」…
より正確に言うなら、マチエールの登場する「『ハンサムイベント』のエンディング」は、
この観点に立っていると言える。
“知らなかった”マチエールは免責される。
ポケスペのアレンジ
私も、別にこのことに関しては異論はない。
ただ、どうしてか心にはモヤモヤしたものが残ったりもしたのである。
一方で、ポケスペではここに大きなアレンジがある。
マチエールは、エスプリとしての行いに自覚があったことが明かされる。(XY編6巻#36)
このアレンジは、ある意味致命的である。
なぜなら、「催眠下という状況」が免責の理由にならなくなる可能性が出てくるからである。
しかし、
なぜか私はポケスペのマチエールにこそ、
希望のようなものを感じた
のである。
ありようを改める、ということ
ここには色々小難しいことを考えていたのだけれど、それをあんまり面白くできる気がしなくなってしまったので、やめる。
なので、代わりに具体的な話で進めたいと思う。
つまり、
ここからはゲーム・ポケスペそれぞれの「その後のマチエール」について考える
ということをしてみたい。
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ちなみに全く読んでいただく必要はないけれど、以下の記事(におけるわたしの変遷)を見てもらえれば当初しようとしていた議論や、この記事の理論的な下敷きについては何となくわかっていただけるかも。
「正常さ」という病い(アルノ・グリューン)について - けいのブログ
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ゲームに感じたモヤモヤ
私にとって、ゲームのマチエールが登場する「ハンサムイベント」で妙に印象的だったのは「美術館の落書き事件」である。
おそらくエスプリによってなされたこの事件だが、責任は誰がとったのだろうか?
…おそらく、クセロシキが負ったのであることは間違いない。
ただ、私はここに、どうしても「絵画の作者の立場」や「その絵画を大事にしていた人たちの視点」というものを無視することができなかった。
彼らは作中では描写はされていないけれど、いないはずがない。
クセロシキが責任を負うのは当然としても、
だからといって、ただちにエスプリ(=マチエール)に対して何の感情も持たずには済ませることは、そうした人たちにはできない気がする。
絵画へのダメージ*1という実害に際して、「責任」の理屈はわかっても
「それでも、あなたが協力しなければ…」
という思いを抱いてしまっても、不自然とは言えないのではないだろうか?
とはいえ、「だからマチエールも責任を負うべきだ」とは正直あんまり思わない。
マチエールには明らかにやむにやまれぬ事情があった。そこもまた、無視はできない。
ただ、それでもこうした構図がある以上、
ラストシーンで「二代目ハンサムハウス所長としてミアレを守る(/守れ)」と言われても、
それではまるで、この件で傷付いた人は「ミアレの一員」としては無視されている
ような気がしてしまう*2。
具体的にこうした言葉になったのはプレイしてだいぶ後になってだったが、ここが、私としてはスッキリしない。
だから私は、どこかラストシーンをハッピーエンドとして見ることができない。
よかれと思ってしたことでも
どうしてこう感じてしまうのかと考えると、
ゲームのマチエールは自分の行いを知る機会を喪失している
からだと思う。
ゲーム/ポケスペのマチエールは共通して、「純粋さ」という美点を持っていると私は感じる。
そんな彼女が、傷付いた人に共感できないということはあるのだろうか?
と考えてしまう。
それが例え、自らの「わざとしたわけではない行い」であったとしても。
ゲームのハンサムやクセロシキを断罪したいわけではないが、彼らがすべきだったのは
「事実を秘密にすること」ではなく
「事実を隠さず、その上で支えること」
だったのではないだろうか?
もちろん、それは困難な道であるのはその通りである。
また、ハンサムは組織の人間でカロスを去らねばならず、
クセロシキは犯罪者で負うべき責任がある、という状況もある。
それでも、「事実を隠す」ということの持つ意味は、あまりにも大きいように思ってしまう。
マチエールがもし後に「事実」を知った時、最も傷つくのは、その「事実」よりも「事実が伏せられていたこと」だと私は思うのである。
とはいえ、救いも用意されている。
主人公、もこお(ニャスパー)、ミアレギャングたちと、マチエールの周囲にはちゃんと支えてくれる人たちがいるようになっている。
彼ら彼女らがいてくれたら、マチエールはこの先何があっても大丈夫のような気が、私はする。
ポケスペの救い
一転ポケスペでは、絵画への落書きなんかシャレにならないレベルでエスプリ(=マチエール)は「やらかしている」。
だけど、こちらのマチエールはちゃんと「したこと」がわかっているので、
ゲーム版とは異なり「被害を受けた人に対して向き合うことのできる可能性」が残っている。
まぁ、実際に「向き合う」というのはめちゃくちゃ難しいのだけれど。
だからそれもまたすごく困難な道なのだけれど、代わりにその先にはかろうじてちゃんと希望がある。
エックスとマチエール
そこから考えると、マチエールに対するエックスの説得はすごい。(XY編6巻p82-84,p93-96)
ここのエックスの説得の肝は、
- マチエールに共感したこと
- その上で、彼女が「したこと」に対する想像力を喚起するような諭し方をしたこと
だと私は思う。
エックスは数少ない、マチエールに強く共感できる人物である。
彼は「籠る者」という代名詞を持ち、「出ないよ」(=「籠ることを選ぶ」)と言ったマチエールと重なる人物として描写されている。
少し話は脱線するけれど、エックスはメガシンカ使いなのでそれに関連する代名詞であっても良さそうなのにあえて「籠る者」とされているのは、
こういう意味があるからだと思う。
XY編のテーマの一つには、どうも「籠る」がありそうである。
話を戻す。
多分こういう人が一人でもいてくれないと、人は「自分のしたこと」に向き合うことができないのだと私は思う。
だからそれは逆説的に、
エックスがマチエールに対して、力でなく言葉や感情という部分で働きかけたことには、大きな意味がある
ことを示す。
「一人の人」が「一人の人」を助けたかったら、こうするしかないのだと思う。
クロケアとマチエール
もう一人、重要な人物がいる。
それはカロスのポケモン預かりシステム管理人である、クロケアである。
彼はポケスペではゲーム以上に描写があり、マチエールの保護者も務めている。
彼が最終決戦の場で、何も言わずマチエールの側に立ったことにもすごく意味があると私は思う。
ポケスペのクロケアは、かなりかっこいい大人である。
XY編では、ろくでもない大人ばかりなのでそれが余計際立っている。
何も言わず支えてくれる人、気持ちに共感してくれる人、こうした人たちが揃ってはじめて、人は自らの行いに向き合うことができる
のではないだろうか?
そしてそれこそが、本当の意味で「責任をとる」ことだと、今の私は考えている。
ゲームとポケスペのマチエールの違いは、そうしたことを想像させる。
まとめ
タイトルはやや挑戦的な付け方をしてしまっているので、一応その答えを返しておこうと思う。
私は、ポケスペのマチエールは救われたと思っている。
一番困難で、だけど唯一の方法で救われたと思っている。
そしてそれは、フラダリやフレア団が逃げ続けている部分である。
だから、作品を貫くテーマ・描写としても、ポケスペのマチエールの描き方はちゃんと一貫している、と言えると思う。
よってここには、エスプリがフレア団の協力者であることと、最後に袂を別つことに対する必然性を見出せる。
これが意図的/偶然かはさておいて、「描いてしまって」いると私は思う。
だから、ポケスペのマチエールの描写は本当にうまくゲーム版を踏まえ、その上でアレンジしていると感じる。
相変わらず、XY編のシリアスさを含んだものに仕上がっているけれど。それが素晴らしい
今回はあくまでポケスペを中心に書いているので、ゲーム版への言及がやや片手落ちなのはご容赦いただけたら幸いである。
これで、2月に続けていたXY編の振り返り記事は一旦終了です。
その間、色々な人に読んでもらうことができて嬉しかったです。
ぜひ、多くの人で61巻の発売を楽しめたらな、と思います。
発売は2/28(月)、電子版も同時に出るとのこと。
それでは、ここまでお読みいただきありがとうございました!
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