けいのブログ

Key's Bricolage-log

それでも人生にイエスと言う(V・E・フランクル)について

おすすめしていただく機会があり読んだのだけれど、良かった。

 

けれど「本の感想」なのに、ところどころ著者の話だけに留まっていないのはご容赦あれ。

でも、私は読んでいてこうしたことが思い浮かんでしまったし、それに、こうした方向からの指摘は誰もしていないんじゃないのかなぁ。

 

だから、興味がある人はぜひ検証してみてください。

 

 

 

どんな本?

本の情報より。

著者V・E・フランクルは1905年ウィーン生まれの精神科医。著者はフロイトアドラーの影響を受けているという。

 

代表的な著作は『夜と霧』。

著者の名前は知らずとも、この本のタイトルだけは知っている人も多いはず。

 

著者はナチス下で、強制収容所を経験している。

 

 

この『それでも人生に〜』の出版は1993年。本文によると、この本に収められている内容は、1946年に著者が行なった3つの講演から。

訳者は山田邦夫氏、松田美佳氏。出版社は春秋社。

 

 

感想/内容で重要な部分

ここからは、このブログに関連する部分に関する感想みたいなもの。

 

著者および内容について

おすすめしていただいた本はいくつかあったのだが、この本を手に取った一番の動機は、強制収容所を生き延びたという人の思想に興味を抱いたからである。

 

私は、著者に関しては本当に何も知らない。

『夜と霧』も、だいぶ昔に(義務感みたいなものから)一度だけ手に取ったが読み進めることができなかったし、内容も全く覚えていない。

 

とはいえ、この本は「強制収容所の経験から発見したもの」みたいな内容ではない。

だけどもちろん、無関係であるはずもないが。

 

訳者による解説やWikipediaなんかを見ると、著者の思想はその頃には既に成立しつつあり、

だから言うなれば、この本の内容とは「その体験によって“検証された”思想」と呼べるものかもしれない。

 

3つの講演

この本には、3つの講演を元にした3章が収められている。

それは

  1. 生きる意味と価値
  2. 病いを超えて
  3. 人生にイエスと言う

と題されており、それぞれに「哲学」「病気」「収容所での体験」がテーマとして扱われているように思う。

 

 

私はこの内、「病いを超えて」と「人生にイエスと言う」に特に引き込まれた。

引き込まれた、けれど、「人生にイエスと言う」で語られる描写の凄まじさたるや。

 

 

また、「病いを超えて」での

  • 医者が病気や患者に対して取るべき態度
  • 国家による「非生産的な」個人に対する殺人への、徹底的な反論
  • 医者は自殺未遂者の命も助けるべきだ

あたりの主張は明快かつ一貫していて、著者の強い意志を感じた。

 

 

私はそこには多分、著者の生命に対する敬意(で、いいのかな)があるように感じた。

 

その敬意こそが

「人生にイエスと言う」ことができる

と“言い切る”姿勢の最大の背景でもあると思う。

 

もちろん、「それ」を証明するために長く複雑な議論が展開されていて、かつ、その果てにこうした結論が出て来ているわけである。

が、まず大前提として、語る人間にそもそもそうした“敬意”がないと、どれだけ精密な議論を展開したとしてもそこには辿り着かない気がするのである。

 

議論についていくのは実は結構難しいのだ

ただ、「生きる意味と価値」の章は私にはすっとは入ってこなかった。

 

けれど、それは「著者の主張がわからなかった」のではなく「議論についていくのが大変」と思ったのである。

 

それには、著者の議論には西欧的な色彩がかなり強いことが影響しているように感じた。

その「前提」を超える、あるいはその「前提」を持ち込むなら、こうした議論が必要なのかな、と思ったのである。

 

 

私は『生きるための経済学安冨歩,2008)という本を読んで以来、そうした西欧的な考え方が、どうにも頭を滑っていくようになってしまっている気がしている。

それはそうした考えをただちに否定しているというわけではなく、私は自分の中に「そういうもの」に対するリアリティを実は持っていなかったことに気付いて、どうもしっくり来なくなってしまったのである。

 

それは例えるなら見たこともないスポーツの解説を聞いているようで、そこには「前提」となるものがない以上、話に入っていくことができない、みたいな…

だから、実存、存在、使命、運命、選択、決断、共同体…みたいな言葉が、すっきりとは頭に入って来ないのである。

 

 

でも、この章の著者の主張には納得できる部分も多かったのも事実である。

何より、この章の最後の段落である

 夜と霧のなかで計器飛行をしているパイロットが、どうやって目的地の飛行場を見つけるか、ご存知でしょうか。その飛行場からパイロットへ扇状に所定のモールス信号が送られて来ます。それも、操縦士のヘッドホーンに絶間なく送られるブザー音が聞こえるのは、二つの扇型の接線のところを飛んでいるとき、そのときだけです。パイロットはこの連続音が聞こえるように操縦しさえすればいいのです。そうすれば、ちょうど所定の航空路に沿って無事に着陸することができるのです。人生の道を歩んでいる人間もどこかおなじようなものではないでしょうか。これまでにわかったすべてのことからすると、ひとりひとりの人間にもおなじように、それぞれの「目的地」に至るたった一つの道が定められているのではないでしょうか。「唯一の」目的地に着く「一度きりの」道が……。(p59)

という文章の美しさと素晴らしさ。

 

けれど、私はこの文章はおかしいとも感じた。

 

西欧の盲点?

この段落が章の最後であり、かつ、

人生の道を歩んでいる人間もどこかおなじようなものではないでしょうか。(p59)

と言っている以上、この「管制に従い暗闇を飛ぶパイロットの姿」が著者の考えている「人生における人の姿」と考えて良いと思う。

 

しかし、どう見てもこの姿は「問いに答えている姿」では、ない。

求められていることは唯一、「音に従うこと」のみである。

パイロットはこの連続音が聞こえるように操縦しさえすればいいのです。(p59)

ここには「問いに答えている存在」が見当たらなければ、「問いを出す存在」も「問いに答えることで浮かび上がってくる存在」すらも見当たらない。

 

 

「問いに答えている存在」はパイロットだとして、「問いを出す存在」とは管制だろうか?

 

そんなはずはない。

管制はただモールス信号を送っているだけであり、おまけにパイロットとは無関係に存在している。

 

 

ならば「飛ぶこと」が、問いを出したり、「パイロットによって浮かび上がってくるもの」なのだろうか?

確かに「飛ぶこと」はパイロットの操縦の結果ではあるが、それはあくまでただの結果に過ぎない。

 

この様子を指して

「飛ぶこと」がパイロットに何かしら働きかけを行い、それにパイロットが応じることによって、「飛ぶこと(/という働きかける存在)」が生じた

なんて言ったら、相手が科学者でなくたって「え?」と聞き返されるだろう。

 

もし仮にこれが正しいとしても、それならば著者の言及がないのは不自然である。

 

 

そうなると、この描写は著者の主張とは矛盾した、あるいは意味のない段落なのだろうか?

私は、違うと思っている。

 

 

この美しい情景が指し示しているのは、ハーバート・フィンガレットが「論語」の研究で指摘した「岐路のない<道>」のことであり、しかしそれは西欧文化における「盲点」なのである。

だから私は、著者はここで盲点を飛び越えるという作業をしているのだと思う。

 

ただしそれは、著者の議論をひっくり返しかねないとも思うのだが…

 

 

フィンガレットは「論語」における「道」とは分岐のない一本道のイメージで、そこに生じるのは「たどるか」「逸れるか」だけと指摘する。(フィンガレット,p57)

管制に従い暗闇を飛ぶパイロットの姿は、まさにこれである*1

 

これは明らかに、「道」には「岐路」があり、そこには「選択」や「責任」が生じる、というような西欧的理解の世界では、全くない。

それらはあくまでそうした世界観から生じている、言うなれば西欧的な“思い込み”なのである。

 

 

ここまでそうした西欧的な前提を踏まえた議論を展開していた著者が最後にいきなり、こうした「盲点」を飛び越す描写を持ち込んだことに私はびっくりした。

本当に。

 

 

繰り返すけれど、著者の議論には西欧的な前提が強い場面があると感じる。

私はそれが、少々過激に言えば「本来はする必要のない議論・概念」を生み出しているように思う。

 

だけど、この段落にはそうした色彩は全く感じられない。

それどころか、この「ごく普通の情景の描写」によってそうした盲点を一気に飛び越え、しかもそれに留まらず、難しい言葉を一切使用せずとも著者の主張(=人生にイエスと言う)を力強く証明してさえいると思う。

 

人生は「管制に従って(/をたどるように)飛ぶ」ようにさえできればちゃんと目的地に辿り着く

のだから、人生(管制)にはイエスと言っていいんだ、

あるいは

「だから人生にはイエスと言うことができるのだ」

みたいに…

 

 

フィンガレットは1921年生まれで、参考にしたこの『孔子』という本の原著の出版は1972年である。

一方、著者のこの講演は1946年であり、いくらフィンガレットが欧米における「論語」研究の第一人者であったとしても、著者がこの時点でこうしたことを知っていたとは到底考えられない。

 

また、この本を読んだり、簡単に調べた限り、著者が東洋文化に触れていた雰囲気もどうもなさそうである。

 

例えば、ノーバート・ウィーナーは中国を訪れたことで「論語」から強い影響を受け「サイバネティックス」という思想を深め、提唱した(安冨,2012,2013)そうだが、著者もまたそうした経験が少しでもあったりしたのだろうか?

ここは完全にわからないけれど。

 

フランクルとフィードバック

ただ、ここに対する正確な理解としては「著者と東洋文化に親和性がある」ではなく

著者はこの場面において、思想的・文化的な制約を超えて「より人類普遍的な発想」に辿り着いている、だと思う。

 

 

安冨は「論語」における「道」を、フィードバックのことだと指摘する。(安冨,2012)

だから、この「管制に従い暗闇を飛ぶパイロットの姿」もまた、フィードバックである。

 

 

ブザーの連続音が続いている間は、そのまま飛べば良い。

しかし、その連続音が変化した場合、パイロットはそれに応じて操作を行わなければならない。

 

そうして、パイロットの操作によって生じた変化は、ブザーの連続音をまた変化させる。

「道」に戻れたなら連続音は元の状態に戻り、戻らない場合はさらに操作しなけれなならないことがパイロットにはわかる。

 

こうして

ブザーの変化 → パイロットの操作 → ブザーの変化 → パイロットの操作…

という循環的な関係が生じ、それが「道」に沿っていれば正しく飛行することができ、やがて目的地に到着する。

 

ここで起きているのは、まさにフィードバックなのである。

 

 

だからこのことから、著者は「人生における人の姿」をフィードバック的なものだと捉えていた、と言えると思う。

しかしそれは、おそらく著者の中にある“思い込み”によって、哲学的な議論にまでは組み込むことができなかった、のだと思う。

 

 

友達にこのことを話すと、「抑圧という大発見をしておきながら、その後衝動理論とかに行ったフロイトみたい」という話になり、なんだかしっくり来てしまった。

そういえば、著者の師匠はフロイトである… 

 

 

このフィードバックという「循環性」は生命の原則(=必然性)であり、よってこれは人類普遍的なものである、と安冨はいう。

例えばそれはウィーナーの提唱した「サイバネティクス」と「論語」の相同性であり、それを安冨はウィーナーが「論語」から受けた影響だけでなく、

(前略)このような循環的発想が、人類普遍的なものだからである。これは単に発想の問題ではなく、生きるということの本質がそのようにできている、という意味で、普遍的である。ウィーナーが見出したように、生命は必然的にサイバネティックであり、それを虚心坦懐に観察するものは、その循環性に必ずや気づくはずである。(安冨,p237,2012)

というように考える。

 

パイロットの飛行=具体的な日常の場面、つまり「生きることにまつわる場面」の観察からフィードバック(=生命の原則)に辿り着いた著者の姿は、まさにここで示されている姿ではないだろうか?

 

 

話を戻す。

このように著者は「ごく普通の情景」から、“うっかり”文化的な盲点を飛び越えてしまっている。

 

だからこの部分は、そこまでの議論における雰囲気から考えると何か全く別の異質なものに感じた。

しかし、こうした「具体的な場面」から“自由な”発想を柔軟に取り出せる力こそが、個別の発見や思想、あるいは取り組み以上に著者の偉大さなのでは、と思った。

 

 

なぜなら、ここで起きているのは明らかに著者の「前提」や「議論」を揺るがしかねない発見である。

それを、まるで美しい情景にただ心震えているかのように取り上げている。

 

これは、「論語」でいうなら

学則不固」/学んでも固陋にならない。(安冨,2012,p84)

であろう。

 

これは、君子の態度である。

君子は「学習」と、それによるフィードバックを志向する人のことである。(説明するスペースはもはやないので、ここについて興味ある人は安冨,2012 を読んでください…)

 

 

そして、それは「病いを超えて」と「人生にイエスと言う」における、具体的な場面から深い洞察を取り出していることと密接に繋がっているように感じるのである。

 

それもまた君子がなせる態度であるし、何より、この情景の美しさに心奪われている様は、やはり生命に対しての敬意---フィードバック/循環性が生命の本質である以上---がある人ならではのものだと思うのである。

 

責任の議論

最後に、著者がフィードバック的なものを志向していたのでは?ということを裏付け得ると感じた部分について触れたい。

 

それは、3章における「責任」の議論である。

p139〜162の議論は、自己欺瞞と責任逃れに対する批判である。

 罪を問うのはその人に責任がある場合だけです。その人に選択の自由がないとなれば、出身地や身長のように自分で「選び取る」ことができなかったとなれば、罪を問題にすることをやめるべきです。これは、古代の哲学者以来、ましてキリスト教が広まって以来、西洋の倫理思想のそもそもの出発点になっていることではなかったでしょうか。(p144-145)

と、まずは西“洋”(ここでは筆者に従っている)の「責任」について確認しつつも、

 しかし、ここでしなければならない重要な区別があります。同罪と共同責務を区別しなければなりません。(p145)

として、

  1. 例えば、仮に盲腸炎になったとして、それに「罪」はない(=責任は生じない)が、手術に対する謝礼を払う義務=「罪のない責務」(p145)は生じ得る
  2. 「ドイツ人」への非難を例に、責任逃れの問題を指摘する
  3. 「非アーリア系の祖母の存在」による、やはり責任逃れの問題の指摘
  4. ギャングが、別のギャングより悪質でなかったり、傷を負わされた(=被害者)だったからといって、自分の犯罪が免責されるわけではない

と、「(西“洋”の)責任」のあり方を問い直すことをしているのである。

ここでも、著者は西欧的な「盲点」への格闘を---ここではおそらく意識的に---試みているように思う。

 

 

同罪や共同責務について私はうまく理解できていないが、ここで最も重要なのは「責任逃れ」の問題であり、著者の目は、明らかにそこに向いている。

 

 

著者は「(選択の)自由」をやや無批判に使っているが、なのに出てくる議論はほとんど「自由」や「選択」を前提とせず、「結果」と「ありよう」こそを重要視しているように私は感じる。

その最たる例が盲腸炎の例であり、ここに「罪のない責務」が生じるのは、盲腸炎という「現実の問題」が生じていて「ありようを改めない」と(=手術を受けないと)「自分が苦しいから」である。

 

 

ここには一切「自由」から生じる「責任」は、関係していない。

問われているのは、「自分のありよう」である。

 

 

どうして私がこの「責任」の議論を重要視するのかというと、フィードバックにおいては、こうした「自らのありようを改める」という意味での「責任」が重要とされているからである。

 

 

フィードバックにおいては、常に変化に対して変化しなければならない。

その求められる変化とは、意識/無意識に関わらず自らの行いへのフィードバックに対して、である。

 

この時に、「そんなつもりじゃなかった」や「自由な選択ができなかったのだから、私に罪はない」という「責任逃れ」をしてしまうと、フィードバックは機能しなくなってしまう。

 

「盲腸炎になった」という変化に対して「私のせいではない」と変化を拒めば(=手術を受けなければ)、苦痛が続くだけである。

また、「手術代を払う義務はない」と言えば(=適切なフィードバックを返さなければ)、よほどのお人好しでもなければ誰も手術などしてくれないだろう。

 

 

ここに著者の目が向いている、という事実が示すのは、やはり著者がフィードバック的なものを志向していたから、だからではないだろうか?

 

 

どうしてこうした議論が可能だったのかと考えると、それはこの議論が著者の経験に根ざしているから、としか思えない。

3章は、強制収容所の体験および、その後の経過にまつわる議論である。

 

ここでもやはり、「日常の場面」や「体験」から盲点を飛び越すという、著者の洞察の深さが現れているように思う。

 

 

また、責任を「よろこび」と表現しているのも、注目に値するように感じる。

 

 

私は、「楽しみのために生きているのではない(p22)」や「苦悩で意味のある人生を実現する(p37)」は、いまいちピンと来ない。

こうした、“罪深い存在”という感覚を言い換えたような言葉には、やはり西欧的な前提を感じる。

 

もちろん、人生は大変だ、というのは同意するけれど。

 

 

そんな中、責任を取ることは「よろこび」と表現するのは意外に感じるけれど、ものすごくすっきり入ってくる。

何より、このp159-161の議論は、そうした「罪悪感」を全く感じさせず、まぶしい。

 

文章が、ほんとうにまぶしい。

 

「責任」を“本当に”とることはとても難しいことであり、そこを正面切って議論しているのに、力強い肯定感に満ち溢れている。

 

 

私は以前、同じように「責任」を「ありようを改める」という意味で徹底的に使用しているアルノ・グリューンの議論を読んだ時、本当におかしくなったことがあってだな…

keypksp.hatenablog.com

そうした“ヤバさ”を、著者のこの部分からは感じない。

 

それは著者がヌルい、とかではなく、本当に「よろこび」を感じながら語っているから、ではないかと想像する。(グリューンがどうだったのかは、わからない…)

それが読んでいる私に伝わったのでは、ないかなぁ。

 

 

責任をとることがよろこびなのは、こうした形で責任をとる、ことが「自分がよりよく変わっていくこと」を意味するから、だと思う。

それは、生きることに即した、よろこびであろう。

 

生命に敬意がある(と思われる)著者が、こうしたよろこびを見逃すはずがない、と私は思うのである。

 

 

だからこの本の魅力とは、(何度も繰り返しているけれど)こうした生命に対する敬意や、そこに対する深く、けれど“自由な”洞察に溢れた言葉たち、

けれど、そんな著者でさえ西欧的な「盲点」からは完全には自由ではいられていないことによる「厄介さ」*2…、けれどそれをうっかり飛び越えてしまったりすることが織りなす、複雑で唯一な体験をもたらしてくれることなのだと感じた。

 

 

おわりに

言い忘れがあった。この本のもう一つの重要な主題は、ニヒリズムの克服だと思う。

本文中でニヒリズムについて言及があるのはもちろんのこと、著者が経験したファシズムの暴力が、ニヒリズムの帰結だからである。

 

ニヒリズムおよび、それによる“自由の自滅”の描写は『生きるための経済学安冨歩,2008)の第三章が私はわかりやすかった。

そこでは、マイケル・ポラニーやフロムを参照して説明されている。

 

 

この克服を、安冨は「信じる」ことに依拠するべきと指摘し、それは例えば『合理的な神秘主義』という本に表れている。

 

 

この本のタイトルであり、著者の言う「それでも人生にイエスと言う」もまた、「信じる」ことを依拠にする戦略だと私は感じた。

そしてそれはやはり、ニヒリズムを克服するためのものなのだと思う。

 

 

ただ、安冨はヴィットゲンシュタインを引いて「語りえぬものについては沈黙せねばならない」とも指摘している。(安冨,2013)

「信じる」対象である「神秘」の存在は前提にしても、その神秘とは「語りえぬもの」であり、よって語ることはできないし、語ろうとしてもいけない。

 

 

その観点からすると、私は「人生が問いを出してくる」というような、「神秘」にわざわざ「神の似姿」をさせる必要はないように思う。

ここが、私の感じるこの本の一番の「盲点」なのである。

 

けれどこれは著者の考え方を否定するわけではなく、

「人生が問いを出してくる」/「人生の出す問いに答えるのが人生だ」

とは、

「人生においては人は、自分で意味のあることを感じたり考えたりして、それに従う行動をすればそれで良い」

ということを意味し、それはフィードバック的なものであり、つまり生命の本質に沿っているのだから、この部分だけ言っておけばそれで話は終わるように思うのである。

 

それを美しく表しているのが「管制に従い暗闇を飛ぶパイロットの姿」であり、

そこに「管制がパイロットに飛ぶ意味を問うてくる」なんて“設定”は、実のところいらない気がするのである。

 

ここにあるのはやはり、西欧的な世界観であり、それは必ずしも普遍的/絶対的な世界観ではないと思うのである。

こうした点をどう捉えるのか・どう感じるのかが、この本を読む上では結構重要な部分だと思う。

 

 

繰り返すが、これはただちに何かを否定するのではなく、「どのような枠組みを採用するのか」と「そこにある盲点をどう扱うのか」という問題である。

「枠組み」なくしては人は思考することができず、ただし、あらゆる枠組みにはそれぞれに「盲点」があるからである。

 

 

最も重要なのは「神秘」が何なのかではなく(もちろんここは重要ではあるのだが)いかに「神秘」を信じられるか、にあるはずである。

著者もまた、「神秘」に「神の似姿」はさせど、その姿を暴くことにはほとんど興味を示していない。

 

人生(という「神秘」)が問いかけてくる

と考えることによって

「神秘」をより信じることができる

ようになるのならば、それで良いのだ。

 

空を一人で飛ぶ孤独なパイロットに、ふと管制が「今日の飛行はどうだい?」と語りかけてきたとしよう。

それでパイロットの孤独が紛れ、その結果目的地に無事辿り着けるのであれば、どう見てもそれは大成功ではないだろうか?

 

 

もう一度まとめると、この本を貫く著者の姿勢は「生命に対する敬意」であり、ニヒリズムを超えるための、「信じる」ことを基にした戦略の提起だと感じた。

それにおいて、「大丈夫、とりあえず/とにかく人生にはイエスと言っておけ!」という著者のアイデアは、面白いし理にかなっている。

 

そこには著者の経験と、深い洞察に基づく言葉があると感じる。

 

 

 

 

ここまで読んでくださってありがとうございました!

そして、お疲れ様でした。

 

別に私はフランクル研究者でもなければ、今のところ読んだのもこの1冊だけなので、もし興味がある人がいればここまでに書いたことが正しいかどうかの検証はその人にお任せしたいと思います。おい

 

特に気になるのは、

  1. その後の著者の思想はどのように変化していったのか
  2. それは「フィードバック的な方向」に行ったのかどうか
  3. ここは完全に直感だけど、著者の子ども時代は理解者や庇護者に出会えていたのでは?という読みがあるので、その点にまつわる伝記研究
  4. そうでなければ、成人後に理解者に出会えたのでは、という点

ですかね。

 

 

最後に、私は誰かにすすめられないとこの本とは巡り合わなかったと思います。

お名前出して良いのかわからないから出さないけれど、改めてありがとうございました。

 

こうしたことがいつかどこかで起き“得る”から、とりあえず人生は死ぬまでは生きておいた方が良いのでしょうね。

それでは!

 

 

 

 

参考文献

ハーバート・フィンガレット,山本和人『孔子』1994,平凡社

V・E・フランクル,山田邦夫・松田美佳訳『それでも人生にイエスと言う』1993,春秋社

安冨歩『生きるための経済学』2008,NHK出版

安冨歩『生きるための論語』2012,筑摩書房

安冨歩『合理的な神秘主義』2013,青灯社

 

 

*1:厳密には、「論語」における「道」では目的地に着くことは目指されていない(「たどること」のみが目指すべきこと)というのだが、まぁそれは「どこかおなじようなもの(p57)」として…

*2:論語」における重要な発見を成し遂げたフィンガレットすら「共同体幻想」からは自由でいられず(安冨,2012,2013)、他にも、エーリッヒ・フロムもまたステロタイプな「共同体幻想」に陥っていたこと(安冨,2012)と重なって見える