暴力なき出産(フレデリック・ルボワイエール)について
決して狙っているわけではないのに、私の取り上げる本は
- 著者の日本語のWikipediaのページがない
- すでに絶版
- 中古しかないのに値段が割高
ばっかりなんだよ…これもそう。
どんな本?
本の情報より。
著者フレデリック・ルボワイエールは1918年生まれの婦人科、産科医。
著者は59年にインドを訪れたことをきっかけに東洋思想に影響を受ける*1。
66年頃から、この本のテーマである「暴力なき出産」という理念に基づく活動を実施し、
誕生の際の感情的な環境には個人に強く影響を与えるインパクトがあるという事実の確信を深める。(裏表紙、著者のプロフィール より)
という思想に至ったという。
出版は原著が1974年、訳書は1976年。
副題は「赤ちゃんのために」。
感想/内容で重要な部分
ここからは、このブログに関連する部分に関する感想みたいなもの。
手に取ったきっかけ
この本を手に取ったきっかけは、この記事で取り上げた、アリス・ミラーの『「子ども」の絵』(中川吉晴訳)という本で触れられていたからである。
実はこの「暴力なき出産」という本、訳された本は二冊出ていて、うち一冊はこのミラーの訳者である中川吉晴氏の訳である。
訳者のつながりを意識したくてそっちを読みたかったのだが、手に取れたのはこちらの村松博雄氏の方だったので、こちらを読んだ、という経緯がある。
私と出産は、今のところ程遠い
私はここまでの人生で一切出産に関わったことがないので、この本で書かれている内容が正しいのかどうかは全くわからない。
せいぜい、『極私的エロス・恋歌1974』(原一男)というドキュメンタリーで見る機会に恵まれたぐらい…あれ、これも1974年?
話逸れるけれど、この映画、良い映画だったよ。
正しさについてはともかくとして、私には出産に対する無根拠な「思い込み」がたくさんあったことがよくわかった。
「一切出産に関わったことがない」のに、「出産とはこういうものだろう」という思い込みがあり、しかもそれを疑ったことがなかったのだなぁ。
そこで改めて『極私的〜』の出産シーンを見ると、少し違う見方をすることができたようにも思えた。
というか、以前見たときは流れを追う方に意識がいっていて、細かい部分まではあんまり意識してなかったのかもね。
まぁそれはやっぱり、そうした思い込みという「無意識さ」も影響していたはずだけれど。
内容について
この本の大きなポイントは、
生まれてくる時点の子どもを、すでにものを感じたりわかったりできる*2主体*3として扱っている点
だろう。
だから、出産はそれを最大限尊重した方法でなされるべきである、というのが著者の主張である。
それが、“赤ちゃんのための”「暴力なき出産」であり、本書はその方法や思想についての探求である。
それは例えば
- 産室は薄暗闇にするのがよい
- 出産の際には静寂にするのがよい
- 愛情を持ったマッサージの必要性
…など。
全部は書ききれないので、興味があればぜひご一読を。
上で書いたように、この本は1974年に原著が、1976年に訳書が出版されており(中川吉晴氏のは1991年)、現在(2022年時点)から数えて約50年弱が経過している。
だから、この時点の常識とか、今の常識がどうなっているのかは私にはわからない。
著者の考え方は受け入れられているのだろうか?
どの程度広がりを見せたりした/しているのだろうか?
でも、著者は日本語のWikipediaのページはなかったりするからなぁ。
そう考えると、うーん…
ただ、訳者の注を読むと、概ね著者の“一見突飛な”指摘は、最新の研究(1970年代だろうけれど)においてもそれほど外れておらず、また、研究課題に値するとも触れられている。
…本当に、今ってどうなっているのかしら?
おわりに
私はこの本を読む前、興味があったのはもちろんだが、それ以上に「自分の人生の何か重大な秘密を発見してしまうかもしれない」ことが少し…いや、実のところ、結構怖かった。
しかし実際感じたことは「読んでよかった」が一番で、恐怖を呼ぶような「重大な秘密」を発見したりは、今のところしなかった。
だって、一つは単純に「自分が生まれた時のこと」なんて覚えていないんだもん…
けれど、その「覚えていない時」に、一生に関わりかねない“事件”が起き得るなんて、怖すぎる。
もう、それは個人の努力とかとは完全に無縁の、ほぼ「運」のようなものでしかないんだもの。
しかし、だからといって「運」とか「運命論」とかに行くのは、しっくり来ない。
これはミラーが何度も言っていることだが、実際に生じる問題とは「傷があること」以上に「自分の傷についてわけがわからなくなっていること」である。
過去の傷をなかったことにはできないが、傷を見つけることはできる、かもしれない。
そこから考えると、
「もしかしたら、自分の“ままならない何か”がある時、それは例えば生まれた時点の何かにあったのでは?」
と考えるきっかけに、この本はなり得ると感じた。陰謀論とかに行ってはダメだぞ
また、これから生まれてくる子どもに、無意識や思い込みを乗り越えて、何かしらの「幸運」を授け得るきっかけにもなり得るのではないだろうか。
けれどもちろん、それは「この本の書いてある通りにしたらOK」とかいう類ではないだろう。
この本に書いてあることが本当に正しいのかどうかは、やっぱり私にはわからない。
これは訳者が指摘していることだが、著者の、場面によっては「極端すぎる」きめつけ方は
(前略)赤ちゃんのことをもっと真剣に考えるということを強調するあまり、一種の反動として表現したのであろう。(p20、訳者注★1)
という側面もあるだろう。
けれど、それくらい今の出産は「赤ちゃん」が軽視されているということの示唆でもあろう、と思うのである。
まぁ、私はやっぱり「今の」あるいは「実際の」場面については何も知らないのだけれど。
この本はそうした諸々を見つめ直す、というか、考えてみるきっかけになるのではないだろうか?
ここまで読んでいただきありがとうございました!
今回も、私が書くの大好きな、おまけのコーナーあるよ。
なんか予想外の方向にいっちゃってるけれど、よければぜひ。
おまけ:訳者の人に言いたいことがある
最後に一個。
この本の訳者の注釈、特に医学的・科学的見地の紹介や解説についてはありがたいんだけど、訳者もまたややきめつけがあるというか…
ただし、この本を読んだ読者の方々が、この方法がすべてであるとうのみにされてしまうと、いささか混乱を招きかねないので、その箇所については訳者注をつけた。(p6)
とあるんです。
それが
(前略)赤ちゃんのことをもっと真剣に考えるということを強調するあまり、一種の反動として表現したのであろう。(p20、訳者注★1)
とかで、心配も内容ももっともだとは思うんですが、
どれだけ注釈つけたってうのみにする読者はいるし、つけなくたってうのみにしない読者はいるはずだよーっ。
「読者の感じ方」を先回りしないでくれーっ。
アリス・ミラーや安冨歩さんに大きく依拠しがちなわたしはややもすると著者ルボワイエールの話には無批判に飛びつきたくなるけれど、さすがに慎重に読みますよ。
というか、そういうふうに「慎重に」「批判的に」読むのが「本を読むこと」であり、みながみなそうだなんて楽観的な見方はしないけれど、そこは読者を信じておくれよ。
「勘違いを防ぐ」も大事だけど「読者と信頼関係を形成する」方が、メリット、大きくない?
こういう「相手はこうであるに違いない」というきめつけが、突き詰めると「赤ちゃんありきではない出産」の根っこではないのかなぁ。
それを批判している本で、こうした注釈をつけることは、場所によっては「解釈違い」になるんじゃないの?なんて思ってしまった。
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追記:以下、続けて色々書いていたんですが、わたしの思い込みが強いと思ったので消しました。
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訳者はこの本に触れたとき、「ひじょうな感動を受けた(p6)」と書いている。
それがこうした丁寧な注釈をつける動機だったのでは、と思ったりする。
参考文献
アリス・ミラー,中川吉晴訳『「子ども」の絵』1992,現代企画室
フレデリック・ルボワイエール,村松博雄訳『暴力なき出産』1976,KKベストセラーズ