「暮し」のファシズム(大塚英志)について
読んでいるとたった80年くらい前のことなのに知らないことばっかり。
そして、それって結構怖いことだぞ〜。
どんな本?
本の情報より。
著者大塚英志は1958年生まれのまんが原作者、批評家。
まんが、評論ともに著作多数。
出版年からわかるように、この本はコロナ禍の中書かれたもの。
冒頭ではその中で使われるようになった「新しい生活様式」という言葉と、戦時下近衛新体制で提唱された「新生活体制」という言葉の類似性に触れ、
そこから戦時下の様々な事例を見ていくことで、一見すると全く政治的に見えないものでも実はいかに政治的な意味がある(/含まれ得る)のか、ということを考えていく。
出版は2021年。出版社は筑摩書房。
副題は『戦争は「新しい生活様式」の顔をしてやってきた』。
感想/内容で重要な部分
ここからは、このブログに関連する部分に関する感想みたいなもの。
「女文字」のプロパガンダ
この本が主として扱うのは、「ぜいたくは敵だ」「進め一億火の玉だ」などのいわゆる“いかにもな”プロパガンダよりも、
一見すると全くプロパガンダには見えない、けれど戦時下においてプロパガンダとして機能したものである。
それは例えば、「ていねいなくらし」「断捨離」「着こなし」というような形で表現された、「生活」における「工夫」を求める言葉がそう。
なぜそんなものが必要とされたかと言うと、戦時下における体制が「全面戦争に対応しうる国家体制構築のため」(p16)に国民の内面を動員することを目指したからだという。
…ここ、だいぶ端折っているから気になる人は本を読んでくださいな。
そのためには“いかにもな”プロパガンダだけでなく、こうした「プロパガンダに見えないプロパガンダ」も作り出され、
それは「生活」や「日常」の場面において「新しい」ものとして(そして、それを作り変えるものとして)入り込んできた、と著者は言う。
また、特にその担い手としては女性が想定*1され、
に対し、著者はこうした言葉を
「女文字」のプロパガンダ
と表現する。
私が歴史を知っている後世の人間だから、というのもあるだろうが、
そこで引用されている当時の言葉はどれもこれもどこか不気味で、何だか気持ちが悪いものばかりである。
ミルグラムの実験を思い出す
最近、私はずーーーーーーーーっとスタンリー・ミルグラムの「服従実験」について考えている。
そして、この本を読んでいる最中にも何度も思い出した。
特に、
人はつい目の前の作業やコンテキストに気を取られ、
結果として全体の帰結を見落としてしまいがち
という指摘について。(ミルグラム,2012,p23、p25〜26)
「ていねいなくらし」「断捨離」「着こなし」という行為は、確かにある面においては正しくもあるだろう。
(できるかどうかは別にして)
「雑な暮し」よりは「ていねいなくらし」の方が、まぁいいだろうし、
「捨てられない」よりは「断捨離」の方がいいだろう。
そして、せっかく服を着るなら「着こな」せた方がきっと楽しくなる。
けれど、そうした行為そのものの「正しさ」にだけ気を取られると、結果として「新生活体制」というより重大な問題(および、その帰結)を見落とすことになりかねない。
そうなると、本人は正しい行いをしているつもりでも、知らず知らずのうちにファシズムの体制に組み込まれてしまうことだってあるだろう。
こわ〜〜〜〜〜。
…今の私たちは、果たしてどうなのだろうね?
最近、私はそういうことがあって、それに気付いた時は結構ショックだった。
大丈夫、陰謀論的なものではない
…なーんて与太話は置いておいて、
そこから考えると、この本の主題とは
「女言葉」のプロパガンダ、衣服、小説、詩、漫画、写真などの様々なテーマを手掛かりに、
そうした「当時のコンテキスト」を検証する
ということなのだとも思った。
冒頭にも書いたけれど、現在の私たち(勝手にくくっちゃった。ごめんね)はそういうものをぜーんぜん知らないもんね。
おわりに
私がこの本で一番面白かった*2のは、「第二章 太宰治の女性一人称小説と戦争メディアミックス」の章である。
そこでの太宰治の『女生徒』への批判と、そこで触れられる『女生徒』の元ネタとなった有明淑(しず)の日記、および、彼女の人物像が強く印象に残った。
詳しくは本を読んでいただくとして、一点だけ。
太宰治は有明淑の日記にちょこちょこ手を入れることで『女生徒』という小説を完成させたそうだが、
そのうちの一つに
それならば、もっと具体的に、ただ一言、右へ行け、左へ行け、と、ただ一言、権威をもって指で示してくれたほうが、どんなに有難いかわからない。私たち、愛の表現の方針を見失っているのだから、あれもいけない、これもいけない、と言わずに、こうしろ、ああしろ、と強い力で言いつけてくれたら、私たち、みんな、そのとおりにする。誰も自信がないのかしら。(太宰,『女生徒』)
という「書き足し」があるという。
この一文は、有明淑の日記にはないという。
それによって、有明淑の主張と『女生徒』の主人公の主張は全く異なるものになっていると著者は指摘する。
私はいくつかの本を読んできた中で、
こうした「強い力を待望する」気持ちこそが
ファシズムのはじまり
だと考えるようになっている。
だから、この一文が“転向”した太宰治によって「書き足されている」という事実は、そうとう重いものだと感じた。
また、同時にやはりミルグラムのことも思い出す。
私はざっっっっくり言うと、
服従とは、「行為の意味の判断」を他のものに譲り渡すこと
だと、彼の実験から感じた。
その点からすると、『女生徒』における太宰治の「書き足し」はある意味「服従への欲望」と呼べるもので、
同時に、日記によって「自分の言葉」を追い求める有明淑の姿は、その対極のものとして私には映った。
有明淑の日記はいくつか引用されているけれど、そこでの彼女の主張はしっかりしている。
ちなみに、内容もすごいよ。めちゃくちゃ読ませる。
私の駄文なんかはるかに及ばないよ〜。
一人でも多くの人が有明淑さんのようであれたら、もしくは、ミルグラムの実験におけるグレッチェン・ブラントさんのようであれたら、
もう少し社会はファシズムなるものの蔓延を食い止めることができるのではないだろうか?なんてことをわたしは思ったりしたのである。
ちなみに、『女生徒』は青空文庫で読めるし、
調べたところによると、「有明淑の日記」は
『有明淑の日記』/資料集第一輯
というタイトルで、青森県近代文学館が2000年2月15日に刊行、販売しているよう。
※ただし、現在どうなっているかについて私は一切確認していないので、興味のある方はご自身で確認なさってください。
また、いくつかの図書館では所蔵もしているみたいなので、そちらを利用することで読めるかも。
私もいつか読んでみたいとは思っているけれど、どうしようかなぁ…
さて、ここまで読んでいただきありがとうございました!
いずれミルグラムの実験について思ったことを書きたいと思っているのだけれど、最近筆が重くて重くて…
よければまた足をお運びくださいませ。
それでは〜。
参考文献
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/275_13903.html
スタンレー・ミルグラム,山形浩生訳『服従の心理』河出書房新社,2012