【ポケスペ考察】パキラのしたかったこと
この記事はただただ頭でっかちな内容が長く続くだけなので苦手な人はブラウザバック推奨です♡
この度めでたく最新62巻が発売になったので(パチパチ)、そろそろ前巻である61巻の加筆分の内容について触れてみようかなと。
パキラのしたかったこと
もうズバッと本題から。
「ポケスペのパキラは何がしたかったのか?」
について。
私は61巻の加筆分はこの問いに対して一つのヒントを与えるものだと思うのです。
で、私の考えは、パキラのしたかったこととはフレア団の野望の成就などではなく、ただ
「カルネの表情を歪めたかった」
あるいは、もう少し大きく言えば
「カロス地方(の人たち)の表情を歪めたかった」
だと思うのです。
で、前者はあの場のカルネの驚愕(61巻、p174、4コマ目)によって、
後者はそこまでのフレア団による恐怖や暴力によって達成されたから、
それでパキラは目的の達成を感じあんなに清々しい顔をした(同、5コマ目)のではないのかな。
もちろん、仮にこの見立てが正しかったとしても、これらのかなりの部分はパキラ自身無意識的だとは思うけれど。
……いや、でもあの鋭すぎるパキラならもしかして……
パキラとフレア団の接点の薄さ、近さ
ホラ、冒頭にも書いたけれどもうわけわかんないこと書いているでしょ。
ごめんなさい。お付き合いいただける方はもう少しよろしくお願いします。
わたしの考え方は、齧った程度に過ぎないにせよアリス・ミラー(スイスの心理学者、著述家。子ども時代における「教育」のもたらす影響についての研究やヒトラーの研究が有名)の影響が強いので、こういう見方をするのがどうにも好きなのです。
(↑ここ読む必要ないよ!)
ここからは細かいことをうだうだと。
私はXY編を読んでいて印象的なのが、面白いくらいにフレア団の団員たちはボス・フラダリの思想に共鳴しているように見えないところなのです。
ただし、ここを正確に言うなら「(カロス地方の)破壊」という「裏の思想」には強く共鳴しているので、その点においては極めて正確に共鳴していると言えるわけだけれど。
とはいえここはいったん「表の思想」たる「美」について。
この共鳴のしてなさを具体的な描写から言うと、フラダリは「美」に繰り返し言及するけれど他の団員たちはほとんど口にしない点が当てはまると思うのです。
せいぜい幹部のバラが少し口にした程度(59巻、p128)。
でもバラにフラダリほどの強い主義・主張*1は感じられないので、彼女も所詮フラダリの“レトリック”を強く内面化していたがためにそれが口をついて出た、というだけのように思える。
この記事の主役であるパキラもまた「美」といったフレア団の主張について関心が薄いように見える。
描写から考えると、パキラがフレア団に所属しているのはただただ崇拝するフラダリのためであり、そして、作中の行いから考えると「破壊」という「裏の思想」に共鳴している、といった具合のはず。
しかし、加筆分から考えるとこの見立ては少し違っていることがわかるのです。
「破壊」に共鳴している、については間違いないだろうけれど、「フラダリのため」についてはここのパキラのセリフをそのまま受け止めるなら全くの間違いということになりそうであり、むしろパキラはフラダリを憎んですらいたようである。
で、私はその通りでパキラはフラダリを憎悪していたと思うのです。
そりゃそうだよね
わたしはフレア団って何が近いかと言うとファシズムカルトとか自己啓発だと思うのです*2。
カリスマを頂点に抱く、普通の人間からしたらわけのわからないことを主張する、不安を煽る、次第に先鋭化する、暴力を撒き散らす…などなど。
そこからパキラを考えたら、さしずめ教祖やカリスマに心酔する信者。
この見方は作中のいくつかの描写から考えてもそう離れてはいないですよね?
で、ここからが本題だけれど、世の中の教祖や自己啓発のカリスマって十中八九救世主とかヒーローなどではなく単に信者などから搾取をしているだけです(個人の意見です)。
だから、パキラが実は自身のこうした搾取的な構図にちゃんと勘付いていたとするなら、フラダリ(=教祖)を実は崇拝などせずむしろ憎悪していた、は特段奇をてらった展開でも飛躍した展開でもなく、むしろ
そこまでちゃんと描くのか…えぐい…
という展開だと思うのです。
というか、わたしはそう思った。
ポケスペって一応子ども向けの漫画だよね?
子ども向けだからこそここまでちゃんと描くのです。子どもはオトナなんかより遥かに「子供騙し」には敏感だもんね。そもそもXY編がそういう話だったでしょ
パキラが本当はフラダリに心酔などしていない、というのはこうした構図で考えるようになってからは「もしかしてそうなのでは」とは思っていたけれど、ただ、彼女がどこまでそれに自覚的であるかについては言い切る自信がなかった。
正直、先行版の範囲の描写だとパキラにその自覚はないと思っていた。
そしたら加筆分でこれでした。
何度でも言うけど、さすがポケスペです。
パキラの悪役としての格は止まるところを知らないよね。
イベルタルを従えただけでもうストップ高なのに、自分の狂気に自覚的で、その上でその狂気をぶん回す悪役とか、悪役の鑑すぎてしゅごい…
そうそう、ちなみに、パキラの言う「屈辱」(61巻、p174)は「カルネへの対抗意識」(60巻、p72やフラダリがカルネを認めていることあたりが根拠かな)という意見を61巻発売当時他の人の感想で見たことがあるけれど、わたしはどちらかと言うとこの搾取の構造について触れているのだと思うのです。
パキラはフラダリにすがらざるを得ないという自身の弱みゆえに陰に陽に様々な「資源」を搾取されているはず。
ここで言う「資源」とはトレーナーとしての実力(多分パキラの方がフラダリより実力は上)にはじまり、「自分のため」にではなく「フレア団のため」に*3社会的地位の悪用、それによる犯罪行為への協力、
それに、きっと見えない部分ではもっとありそう。大人だもの。
これはどう見ても「屈辱」でしょ。
そりゃ気付いたら怒るし憎むよ。
そして、もし復讐するとするなら一番効果的なタイミングを狙ってもおかしくないよね。
「この世が浄化できたら真っ先に」(61巻、p174)ってパキラ自身の世界への破壊願望あるいは世界を巻き込んだ破滅願望であると同時に、フラダリにとって最悪のタイミングで、ってことだよね。
まぁ、わたしの見立てだとフラダリも破滅願望の持ち主のはずなので、「そこ」でパキラにやられたとしてもむしろ本望オブ本望か。
ウィンウィンだね。どこがやねん
パキラはカルネのことなんか見ていない
カルネの話がうまくやってきたので、カルネとの関係について。
私は実際のところパキラはカルネに執着していないと思うのです。
もちろん、描写ではパキラはカルネに対する強い対抗意識や執着が見えるけれど、わたしはどうにもこれをカルネという「個人」に対する執着とは思えないのです。
わたしはこれは「カルネという偶像」に対する執着だと思うのです。
とはいえこのあたりの話は作中の描写を超えているのでわたしの感覚にすぎないものだけどね。
まぁわたしの記事は批評とか評論ではなく「考察」なのですから。
この「カルネという偶像」をわたしの言葉で言うなら「カロス地方の美」。あるいは「世界や社会の美しい部分」。
剣盾編のネズの言葉を借りれば「ピッカピカ」(剣盾編4巻、p69)なもの。
パキラはこれに執着しているのではないのかなぁ。
反吐が出る、気に喰わない、でも本当は欲しい、けど手に入らない、なら全部ぶっ壊してしまえ…みたいなぐちゃぐちゃな感情が入り混じるものとして。
美貌、才能、賞賛……愛。
子どものころから与えられていたあなたにはわからないでしょう。
(59巻、p75)
これはXY編の名セリフの一つだと思うのだけれど、これが全てを物語っている気がする。
カルネという「偶像」(カルネが、ではない)が体現しているそれらにパキラは心乱されるからこそ体現者であるカルネに執着し、それがカルネに対する執着に見える、だと思うのです。
でもこのセリフが面白いのは、パキラも一見するとどれも持っているようにも思えるのだよね。
美貌、才能、賞賛って、四天王でありニュースキャスターでもあるパキラは持っているようにも思えるけれど、彼女にとってはあったとしてもどれも足りないんだよね。
そしてきっとそれらはどこまでいっても「足りる」ことはないはずで、それはやっぱり問題の根が別のところにあるからのはず。
で、それが何かというと、間隔を空けて語られた「愛」という言葉の内に込められていると私は思うのです。
パキラは「愛」が欲しいんじゃないのかなぁ。
すごい抽象的だけど。
ある種の「鈍感さ」
ここからはちょいときつい言葉を使いますね。
わたしはポケスペのカルネにある種の「鈍感さ」を感じるのです。
それが最も現れていると思うのが以下の加筆分にある
だからともに殉じようと…。
それともあなた、フラダリさんのこと…。
(61巻、p174)
このセリフで、それはなぜかと言うと、わたしのここまでの見方に立つとこのセリフは「どっ外して」いるからです。
その後のパキラの返答から考えるに、この「それともあなた、フラダリさんのこと…。」に続くのはおそらく
「…を庇おうとしたかったの…?」
とか
「…をそんなにも愛して…。」
みたいな言葉だと思うのですが、やっぱりそれはパキラの実情とは違っていますよね。
事実、パキラは直後にカルネの発言を強く打ち消している。
まぁ、「それとも」を字義通りに厳密に読めば、続くのはもしかすると
「…を実は憎んでいて…(これでホッとした?)。」
とかなのかもしれず、そうなるとわたしの言う鈍感さの方こそが的外れになるのだけれど。
それとも:[接]あるいは。または。もしくは。
でもそれだと前後の描写と繋がらなくなっちゃうから、やっぱり前者だよね。
ちなみにここは批判のように思われるかもしれないけれどむしろその逆で、ここにもわたしはポケスペの描写の貫徹ぶりを感じるのです。
で、なんでこんなすれ違いが起きたのかと考えると、私はやっぱりそれはカルネが「ピッカピカ」だからだと思うのです。
カルネの生きる世界にはきっとパキラのような「ドロドロ」は存在せず、だから「執着」や「依存」があたかも「愛」のように見えてしまうのではないのかなぁ。
とはいえこれを冒頭のように「鈍感さ」というのはやや言い過ぎのような気もするのですが、
XY編のラストバトルがエックスのマチエールに対する理解や共感が重要な転換点になったことを思うと、カルネとパキラのどこまでいっても交わらない様はやっぱり「鈍感さ」と表現したくなる誘惑にかられるのです。
エックスとカルネの対照さ
で、もう少しだけ踏み込むけれど、その「鈍感さ」がどこから来るのかと思うと、
カルネもまたすすんで「カルネという偶像」を演じているから
だと思うのです。
ゲームのカルネもポケスペのカルネも勇気や献身性、正義感といった美徳を備えた大人物なのは間違いないけれど、わたしにはどこかカルネという「個人」が見え辛いのです。
これは人間臭さ、と表現するのが良いのかも。
で、それはなぜかといったら、カルネは大女優やチャンピオン、メガシンカの継承者といった「偶像」であることに誇りを持ち、そしてそれに徹しているから、だと思うのです。
でも「偶像」はどんなに魅力的、あるいは立派な人間性をまとえたとしても結局は「偶像」でしかなく(身近なアイドル、とか人情溢れる政治家、というものを想像していただくと良い)、
だから、それを突き詰めれば突き詰めるほど自他の「人間臭さ」というものに対して盲点、つまり、ある種の「鈍感さ」が出来上がっていく…そうわたしは思うのです。
わたしがこのようにカルネの盲点をある種の「鈍感さ」と表現したいのは、それが逆説的にカルネの大人物ぶりを的確に表せると思うからです。
そこを曖昧にしたり、日和ったりして半端にカルネにパキラを理解させたりしないからこそポケスペの描写はすごいのであり、私が貫徹ぶり、と表現するのはそういうことです。
そう考えると、こんなにもポケスペのパキラが存在感を放つキャラ*4なのは、方向性は完全に間違っているにせよとにかく人間臭いからですよね。
パキラの残酷さや冷酷さには共感できる部分はないけれど、そこへと駆り立てる衝動みたいなものは程度の差こそあれ人にとっては普遍的なものだから、読む人はどうしても“わかって”しまうのだと思うのです。
話を戻しましょう。
この見方をすると、パキラとカルネの無限追いかけっこも少しだけ説明ができるようになると思うのです。
①パキラはカルネが「偶像」であればあるほど、それが体現する「美(ピッカピカさ)」が我慢できず執着するようになる
②カルネはそんな巨悪たるパキラに対抗すべく、大女優やチャンピオン、継承者といった「偶像」であることにますます徹する
③よって、パキラの執着もまた強まっていく
④カルネもさらに対抗して…
みたいな終わりのない追っかけっこをしていることが、2人がどこまでいっても交わらない理由の一端じゃないかな。
で、少し脱線。仮にこう見立てると、
今は無名のトレーナーでメガシンカの継承式も終わらせていないエックスが、マチエールを止めることでフレア団の破壊を止めるきっかけを作り出せた
ということが、
エックスはこうした「偶像」をまとうことなくいるから「エックスとして」マチエールに近付くことができ、彼女に理解や共感をもって触れ合うことができた
として「カルネ-パキラ」間とは対照的に読めて、すごく描写と描写が繋がっていく感じもあるのです。
オトナたちではフレア団の浸透も侵攻も止めることができなかったけど、子どもたちの勇気や友情、信頼がそれを打ち破る大きな鍵となった
というのはXY編のテーマの一つでしょうし、この対照さはそれとも繋がっていると思うのです。
…もちろん、オトナたちも頑張っていたよ!
彼ら彼女らの名誉のために。
ちなみに、それに関してさらに余談。
通巻版の際、本編に組み入れたい思って描いた2018年カレンダー12~1月分イラスト、4年越しでようやくかないました。自分で描いてて「衆人環視の路上で老人に土下座させられてるエックス」に見えてしかたなかった(笑)。先行版では未収録の568話(58巻所収)を読めば一層理解がフカマル一場面です。 pic.twitter.com/Ubn057ce0R
— 山本サトシ (@satoshi_swalot) 2022年3月30日
私はここに関しては山本先生の見立て派で、わりとガチで土下座だと思っていたり。
権威や権力みたいなものから自由なのがエックスの良さで、でもついに権力に屈服させられその良さが失われようとしてい……いや、でも今のエックスならどこでも自分らしくいられるよね。
あらためて、パキラのしたかったこと
やっと長い旅を終えられそうなので、あらためて冒頭の問いを。
「ポケスペのパキラは何がしたかったのか?」
に対して、わたしは
「カルネの表情を歪めたかった」
「カロス地方(の人たちの)の表情を歪めたかった」
としました。
で、ここまでの話を絡めて説明するなら、それらの目的とはカルネという「偶像」を破壊したかっただと思うのです。
そこにはいくつかの意味があると思っていて、
- カルネが体現する「カロスの美」を破壊したかった
- カルネの本性を暴きたかった
ではないのかな。
前者は世界とか社会への復讐として。
もうスペースはないので割愛するけれど、パキラも世界とか社会に傷つけられてきた人矛盾を抱えている人間*5であり、フレア団に所属していたのもその復讐のためでもあると思うのです。
わたしは「カロス地方(の人たちの)の表情を歪めたかった」はそういう意味として書いていたり。
やっぱり、いくらフィクションの話とはいえ、ひどく傷つけられた人間でないと矛盾を抱えた人間でないとあんなに破滅的で破壊的な計画には従事できないですよ。
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2022年10月17日:追記
一部表現を修正しました。
「傷つけられた」よりも「矛盾を抱えた」の方がしっくり来ると思ったので。
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カロスを代表する「カルネという偶像」を破壊することで、結果としてパキラはカロスに復讐を果たし、そして全てを破壊する。
ここはそう読んでも面白くないですか?
そして後者はさらに抽象的な話になるけれど、言葉で説明するとするならパキラは「生きた人間とのコミュニケーション」に飢えていたのだとわたしは思うのです。
パキラが口にした「愛」とは多分それであり、そして「行くところまで行ってしまっている」彼女にとって他人と「生きた人間とのコミュニケーション」を取り結ぶ手段は愛情や信頼などによるものではなく、
もはや暴力や収奪*6、そこからの怒りや嫌悪などにしか残されておらず、それが彼女の行動の全ての裏側にあったと思うのです。
パキラがフラダリにすがるのも、彼女はそんな病んだコミュニケーションからでしか生きた実感を感じることができないからでは、なんて気もします。
フラダリがパキラに「屈辱」を与えるたびに、あるいは与えているときにだけ、パキラは「生きた」感情に出会うことができる…歪みすぎていて、病みすぎていて理解するのは難しいけれど。
余談ながら、ゲームやポケスペでフラダリとパキラの格の違いを指摘するのはちょくちょく目にしたりもするけど、それってDVの関係の相似ですよね。
なんでこんな優秀な人があんなひどい人にひっかかるの、っていうのと似ている。
話を戻しますね。
だからパキラはカルネのあの表情(61巻、p174、4コマ目)を引き出せた時、心底生きた実感がしたのではないのかな。
やはり歪んでいて、そして病んでいるから理解するのは難しいけれど。
言葉で無理やり表現するなら、
「この目の前の人間(カルネ)は私を理解できないがために心の底から戸惑っている。」
「その相手とは、カロスで最も素晴らしい「偶像」であるがゆえに、最も「生きた」人間から遠いとも言えるあのカルネ。」
「だから、その「心の底からの感情」とは本物の、強烈な「生きた」もの以外にはありえない!」
…みたいな。
わたしはやや挑発的に「パキラはカルネなんか見ていない」と書いたけれど、こうした意味では確かにパキラは「カルネに」執着してはいますね。
多分、もうパキラにとってはカルネくらいの超大物が相手でないと満足できないのではないのかな。ド・ヤンデレやんけ
余談ながら、パキラってほとんどアサメの5人組と接点がないのがなんだか印象的で、
ここをすごい穿って読むなら、子どもたちの“聡明さ”はパキラでさえも理解しうる可能性を秘めたものなので、それを恐れるパキラは本能的に子どもたちを避けていた、なんて思ったり。
なぜなら、多分、子どもたちに理解されるということはパキラにとってはカルネに理解されることよりもさらに耐えられないことのはずですから。
カルネとパキラの顛末
あのカルネの表情はわたし、すごく良いと思うのです。
カルネの全ての描写の中で、最も人間味を、カルネらしさを感じる。
目の前にいる、同じ人間であるはずのパキラのことが理解できないという驚愕。
どんな危機にも揺るがなかったカルネが、危機でもなんでもないこんな場面なのにはじめて揺らいだように見える表情。
チャンピオンでも、大女優でも、継承者でもない、一人の人間であるカルネをそこに感じるのです。
セリフすらない、大きいコマとも言えないのに、最もカルネの存在を強く感じるのです。
…うーん、書いていて思ったけどもしかしてこれってわたしも歪んでいるのか…?
気を取り直して最後に一個。カルネは最終決戦でパキラに対し
カロスのチャンピオンとして、
この戦いは私が決着をつける!!
(61巻、p111)
と、最後まで「偶像」であり続けようとします。
で、それに対しパキラは
この期に及んでまだ「チャンピオンとして」ですって?
そんな肩書き…、
もう意味を成さないこと教えてあげる!!
(61巻、p113)
と返していますよね。
これはまぁ普通に読んだら
「これだけカロスが滅茶苦茶になって、しかもこれから破滅しかねないのに肩書きなんてもはや意味がない」
という意味でしょうが、わたしは同時に
「これだけお膳立てをしてあげたんだからその「偶像」の裏から出てこい」
と、パキラが渇望しているようにも思うのです。
カルネからしてみればどう考えてもパキラの完全に身勝手な欲望なので「知ったことか」という話ですけど、でもやっぱりそこにはパキラの執着や業の深さはどれだけのものであるのかが暗示されているようで、改めて読むと象徴的なシーンだと思うのです。
結果を見ると、この最終決戦、ひいては先行版の内容ではパキラは「生きた」カルネを引き出すことはできませんでした。
けれど、通巻版の加筆によってパキラはついに「生きた」カルネを引き出せた…とわたしは思うのです。
だからあんなに清々しい、納得したかのような表情を浮かべたのではないのかな。
あのパキラもまた、「生きた」パキラだと思うのです。
まとめ
そのシーンに添えられているセリフについて、わたしはあえて触れませんでした。
未読の人にはぜひご自身で読んでいただきたいのが一番なのと、ここまで読んでいただいた人には説明する必要はないと思うからです。
さて、お疲れ様でした!
わたしはどうにも人の感想や考察を読むのが苦手で、そんなだからわたしの怪文書めいた記事もまたあんまり読まれるとも思っていないし、おまけにどこか「簡単に読まれてたまるか」みたいに変な力が入っている自覚があったりします。
だから読んでいただいて、おまけに反応まで返していただける方には本当に感謝しかないです。
改めて、ありがとうございます。
これで今年の2月に書いたXY編の振り返りも最終回になる…はずです。
62巻の発売を言い訳にしたけれど、本当は2月に書こうとしたものがいつまでも書けず、半年も経ってやっと書けた次第です。
やはり多分に「読み過ぎ」ですけれど、何かしら楽しんでいただけていたら幸いです。
それでは〜!