【ポケスペ考察】復讐は成った、が
『サン・ムーン編』における描写から、ポケスペにおけるポケモンについてわたしが思うこと。
ポケモンの描写も好き
わたしは『ポケットモンスターSPECIAL』の人間たちの描写が大好きなのですが、同じくらいポケモンの描写も大好きです。
とはいえそれは「可愛い」とか「格好いい」とか「綺麗」とかだけではな…いや、それがほとんどだな。
以上。
……と終わってしまっては記事にならないのでもう少しだけ踏み込みましょう。
わたしはポケモンにも人間たちと同じくらいの葛藤や意志を感じる瞬間があって、それが好きなのです。
ニンゲンはポケモンの表情やしぐさの意味を、ニンゲンと同じと判断しがちですからね。
ポケモンによっては違う意味になるからな。
あくびするのは退屈してるからじゃねえ、
笑って飛び跳ねてるからって喜んでるわけじゃねえ、
顔をなめるのは親愛の表現じゃねえ、
てな具合によ。
(54巻、p67)
であり、似たような振る舞いでもその意味は人間とポケモンでは異なっている可能性があるので、ゆえに、これから書くわたしの見方も相当に間違っている可能性もあるでしょう。
これ、3つとも数年前に聞きかじった犬のストレスサインです。#ポケスペ回想録 pic.twitter.com/OeVddxcPJr
— 山本サトシ (@satoshi_swalot) 2022年3月16日
余談ながら、これ犬のストレスサインが元ネタらしい。
と、前置きしつつ、今回のテーマは「ポケモンが人間を助けてくれる瞬間」について。
具体的に言うと『サン・ムーン編』のダラー(ニャース)について考えてみたいな、と。
でも今回はおやであるサンとの関係について以上に、彼らの仇敵たるザオボーとの関係についても考えてみたいのです。
人間以外の生き物が復讐にやってくる
具体的に取り上げるのは『サン・ムーン編』6巻最終盤の、アローラから他地方へ逃げようとしているザオボーの前にダラーが現れたシーンについて。
ここ、この記事に至るまでにいろいろ考えてみたけれど、一番しっくり来たのが映画『フェノミナ』のラストシーンとの比較かなぁと。
↓一応Wikipediaのリンクも置いておくけど、これサスペンス映画なので苦手な人は注意。
グロいし露悪的だよ〜ん
ちなみに、『フェノミナ』への言及は山本先生がファイツに絡めて何度もしているので、ポケスペの考察にこれを持ち込んでも不自然とまでは言えない、よね?
「フェノミナ」というイタリア製ホラー映画のヒロインにはいじめっ子や殺人鬼に追い詰められると昆虫の大群が現れて助けてくれる能力があるのだが、ファイツにも接した人やポケモンが手助けせざるをえなくなる庇護欲をかきたてる特殊能力があったのでは?なぞと考えた彼女の誕生日。はぴばファイツ🎉 pic.twitter.com/Dxwffx39z5
— 山本サトシ (@satoshi_swalot) 2020年9月16日
「フェノミナ」4Kレストア版BDが届いたので10数年ぶり3回目の鑑賞。やっぱりファイツのキャラ描写の根底はこの映画のヒロイン・ジェニファーだなあ、特にこの場面。じゃあ登場人物をB2W2編のキャラに置きかえるなら誰が誰になるかな?なぞと考えながら見てしまった。 pic.twitter.com/qUQ6PSzI5L
— 山本サトシ (@satoshi_swalot) 2020年11月6日
でまあ、「フェノミナ」という大好きなホラー映画では、ヒロインがピンチになると虫の大群が現れて助けてくれる場面があったのを思い出し、「ファイツにはポケモンたちが助けたくなる特殊能力があるのではないか?」勝手にひとりでふんわり考えてます。
— 山本サトシ (@satoshi_swalot) 2022年3月16日
また、あくまで「比較」であり「影響がある!」ではないのには注意してね。
以下、話の都合上映画のネタバレを少ししているので、見る予定のある人は注意。
Wikipediaに書いてある程度のことだけですが。
でもさ、古典とはいえサスペンス映画のストーリーやオチをWikipediaとはいえこんなに書くのってどうなの…?
ラスト、事件の犯人によって窮地に陥るヒロインの前に現れ助けてくれたのはヒロインの“友人の一人”ともいえるチンパンジー。
そのチンパンジーは手にした刃物で犯人を殺害しヒロインを救うと、ヒロインは悲しげな表情の彼女(?)を抱き寄せ、この映画はエンディングとなります。
実はこのチンパンジーは飼い主でもありパートナーでもあった人間(ヒロインにもよくしてくれた昆虫学者)を殺人鬼に殺されていて、また、非常に賢い生き物として描写されているので、このシーンはまるで彼女の復讐のようでもあるのです。
実際に、復讐を決意しているかのようなシーンの挿入もあったり。
と、これが映画のラストカットです。
…意地悪に見れば
「いきなり現れてあっさり解決とかご都合主義だろ」
とか
「愚かな人間の暴力の連鎖の尻拭いを無辜の生き物にさせておしまいだなんて、この監督はひどい😭」
とか思わないでもないけれど、特に前者は「ご都合主義」ではなくチンパンジーの執念の表現だと思えるし、そしてその想いの深さには感じるところがありました。
あんな人の良さそうな教授(昆虫学者)を惨殺せんでも、と思うとね…
「どうやって仇の場所を知ったのか」とか「どうやって現れたのか」なんてことはどうでもいいのです。
そこにどんな理由や背景・根拠があったとしても、最終的には偶然に行き着くはずですから。
偶然は考えたって仕方ない。
これは別に皮肉ったり馬鹿にしているのではなく、執念とは“そういうもの”ということであり、そう考えると執念とは「想いを実現する力」ではなく「偶然が転がり込んでくるまで粘ることのできる諦めの悪さ」なのかもしれません。
ダラーの執念
ここからダラーの話に移るけれど、ダラーもまた「どうやってエーテルパラダイスに行ったのか」とか「ザオボーをどうして見つけることができたのか」とかはどうでもいいのです。
執念です。
また、わたしはあのダラーの行動は復讐だったと思っているのだけれど、それも『フェノミナ』に重なります。
『フェノミナ』のチンパンジーは愛する人を奪われたことがその動機だろうけれど、ダラーにもそれに近いものを抱えていますよね。
ザオボーはダラーのおやであるサンを裏切った因縁のある相手ですから。
また、ダラーにとっても因縁がある相手でもあります。
サンの心境やいかに
ちなみにサンに目を向けてみると、ムーンの見立てだと彼はザオボーの裏切りの後でもいたって平常心であるかのように振る舞っていたみたい。
こっちの世界に連れてこられて半年…、
5年間の目標と努力がふいになったのに、運び屋さんの落ち込んでいるところを見たことない。
見せないようにしてる?
ツライの我慢してる?
(『サン・ムーン編』5巻、p22)
わたしはムーンの見立てとは少し違っていて、サンは良い面にも悪い面にも相当の合理主義者なので無理するとか我慢するとかでなく「落ち込んだって仕方がない」と割り切ってそういう振る舞いをしていたのではないのかな、と思うのです。
ムーンはその反対に合理主義者に見えるのに実は情に左右されるところが大きいから、こういうサンの切り替え方がうまく理解できなかったのでは、なんて思ったり。
しかし、「落ち込んだって仕方がない」は落ち込んでいないと思えないのであり、つまり、わたしはサンは実際のところは落ち込んでもいたとも思うのです。
だって、「5年間の目標と努力がふいになった」のですから。
普通に考えて何も感じないわけがないもの。
ただ、その人によるのは「そこからどう振る舞うか」ということで、サンの場合は少なくとも表面的にはあのようにケロッとしていた(/していられた)のでしょう。
でも、サンが仮にそうだったとしてもダラーがザオボーの裏切りをどう思ったかはサンとはまた別の話ですよね。
わたしは、ダラーは自身のおやであるサンへのこの仕打ちを「許さない」と思っていたのでは、と思うのです。
それに、これはダラーに対する裏切りでもありますし。
で、それらが“復讐”への動機になっていたのではないかなぁと。
なつき進化という共通点
ここで一度サンとダラーの関係を整理しておきたいのですが、それに一番近いのは『HGSS編』最終盤手前までの「ゴールド・トゲたろう」関係だと思うのです。
両者は「なつき進化するポケモン」で「未だなつき度が足りないようで進化できていない(/いなかった)」という共通点がありますね。
「ゴールド・トゲたろう」の場合、ゴールドの
今イチ、心を開ききってない……なんて、
冗談じゃねえよな。
どっちが心を開いてねえって話だよな。
(43巻、p56)
という告白がきっかけとなりトゲたろうは進化に至りました。
わたしはサンの場合もこれで、「心を開いてない」のはダラーではなくサンの方だと思うのです。
だって、「バカさ」加減をわかってそれでも5年間もついてきてくれるポケモンが「心を開いてない」ってわけはないですよね。
もしこれが違うなら、いったいダラーのなつき度の上限っていくつですか?カンストにどれだけ必要なの?65535くらい?ってレベルでしょ。
余談ながら、わたしはここにもサンの合理主義的なものを感じて、サンは意外とイメージに反して「理屈じゃない」ことが苦手なのかな?と思うのです。
「バカさ」をわかってもついてきてくれるという「バカさ」がどうにもうまく理解できない、のように。
ダラーへの推測(『サン・ムーン編』6巻、p51)もどこか型通り過ぎる見方であって、自分の関わっていることのはずなのに何だかよそよそしいものであるし。
他者に真意を掴ませないサンらしいといえばそうだし、あるいは、この一種のシニカルさ、ステロタイプっぽさ、他人事っぽさはサンが何かしら…自分がダラーに心を開いていないこと、に気付くのを恐れてあえてそういう見方をしているから、というようにも思ったり。
さらに余談。ここは飛ばして大丈夫です。
『サン・ムーン編』3巻でのフラン(ミミッキュ)への励まし、あれわたし大好きなのだけれど、あれはダラーとのすれ違いとは反対にサンの合理主義的なものがいい方向に出た例だと思うのです。
おおよそヒューマニストには見えないサンからしたら意外すぎると言ってもいいような、あの励まし方。
でもあれ、「誰かを助けることは自分を助けること」という本当の意味での合理主義的なものから来ている、と考えたらわたし的にはすごくスッキリするのです。
何かグラジオがどっかでそういうこと言っていたような気がしたけれど、気のせいだったかな…?ゲーム?少なくともポケスペでは見つからない
わたしは何となくだけど合理主義とヒューマニズムは実際は対立する概念ではなくて両立するもの*1…というように思っていて、だって、ちょっと真面目に考えると
だろうから、そもそもに合理性とヒューマニズムはある程度に両立させないと(大抵の)人は生きていけないはず。
で、サンはそれがなぜだか結構うまい、けれども下手な部分もある、みたいな。
…これ、いろいろ書いたけれど、簡単にまとめるなら
サンは「貯める者」でありながらステロタイプ的守銭奴描写に陥らず、
いうなれば「ポジティブな守銭奴」という面白いキャラになっている
であり、どう考えてもこれだけでいいな。
じゃあそれで。
で、わたしはそれがフランへのあの言葉に現れている、と思うのです。
悲しそうな顔のダラー
気付いたら話がぶっ飛んだので戻します。
飛んで来た人はこんにちは。
だから、そんな“なついている”ダラーがアローラに帰還した際にサンと別れたのは、サンの言うような
「いっしょにいる意味がなくなってた。(『サン・ムーン編』6巻、p51)」
のではなくて、
サンがしたくてもできなかったこと=ザオボーへの復讐を“しに行ってくれた”
のではないのかなぁ。
やはりここでもサン=合理主義者という図式を出すけれど、サンがアローラの危機に立ち向かったのは正義感でも義務感でもなく「稼げなくなる」「ひいじいちゃんの夢であるポケモンリゾートが作れなくなる」という現実的な問題によるところが一番でしょう。
しかもその最前線にいて、かつ、サンは騒動を収めうる力も持っている。
こうなってしまったら、合理主義者のサンからしたら「イヤでもやってしまう」場面のように思うのです。
でも、一人の人間として考えたら
「そんなことよりもアローラに帰って来たからにはまずはザオボーにケジメをつけさせたい」
と思ったとしても、それは決して不思議でも、ましてやワガママとも言えないとわたしは思うのです。
でも、ウルトラディープシーで(おそらく)「無理することもなく落ち込んだ様子を見せない」ようなサンであり、しかも上述のようなアローラの危機が眼前に広がっていたら「ザオボーにケジメをつけさせたって今は何の意味がない」という気持ちの方が先に立ってしまうような気がするのです。
でも、やっぱり「落ち込む」や「悔しさ」が一度心に浮かんでいたとしたら、それをなかったことにはできないはず。
その「なかったことにはできないこと」をダラーは引き受けてくれたのではないのかなぁ。
復讐は成就したのに…
『フェノミナ』と『サン・ムーン編』のラストが決定的に違うのは、ダラーとザオボーの関係性にはウツロイドが絡むことによって全く違う構図になっている点です。
で、わたしはここがたまらなく面白い点だと思うのです。
それを具体的に言うと、わたしはザオボーにとっては
「ダラーに素直におしおきされていた方がマシだったんじゃない…?」
という点です。
だって、
「ニャースにお仕置きされる」
と
のどっちがマシかなんて考えるまでもない*2ですよね。
このように『フェノミナ』も『サン・ムーン編』も悪役は破滅で終わりますが、手を下したのは『フェノミナ』では復讐者であるチンパンジー自身なのに対し、『サン・ムーン編』ではダラーではなくザオボーの強い不安や緊張感に惹かれてか突如飛来した第三者的なウツロイド、と違うものになっています。
とはいえ破滅は破滅。
復讐は成就したともいえ、さぞダラーも晴れた顔を…していませんね。
58巻、#567「ライボルト、代わる」でのトロバ・ライボルトと比べるとあまりに印象的です。
わたしはこのことからは、ダラーは復讐を望むもザオボーの破滅までは望んではいなかった、というように思うのです。
理由を探せば、
- 破滅までさせてしまうとサンに対して反省させるチャンスがなくなる
- 本当に殺る気があったら威嚇や牽制なんかせずにサッと「やって」いるはず
- そもそも殺意や相手の破滅を望む、というのは実際のところかなり極端な形での感情の発露であり、そんなところまでは普通まずいかない
とか色々考えられるだろうけれど、いずれにせよダラーの復讐が成っていた場合、辿り着くその結末はどんなものであっても「ウツロイドに寄生されて異世界島流し」よりはマシなものになるはずでしょう。
そう考えると、ダラーの復讐とはザオボーにとっては垂らされた蜘蛛の糸*3という面もあったのではないのかな。
『フェノミナ』のチンパンジーとダラーのそれは(おそらく)同じ復讐であり、そしてその結果も同じく悪役の破滅ながら、かたや暴力の連鎖であり、かたや救い(になり得た)だったというのはとても興味深いことだと思うのです。
ストーリー的にみれば演出の妙というか、かえって破滅が際立つのでより容赦がないというか…
一旦救いを用意しておいてそこから落とすのって、ただ落とすのよりちょっと…いや…かなり…性格悪…い…?(褒めています)
以上をまとめると、こういう背景がそこにあったからこそダラーは復讐は果たせど複雑な、どこか悲しげな表情を浮かべたのではないでしょうか。
人間()できてる
『フェノミナ』のチンパンジーも復讐を果たした後に悲しそうな顔をするのですが、あれは
「復讐を果たしても飼い主に会えるわけではない」
「暴力の持つ虚しさ」
「こんな目に遭わせた監督への恨み」
とかで、少しダラーとは異なっている気がするのです。いずれにせよ救いないね…
あと、ダラーの目にはザオボーへの同情も映っている気がするのです。
同情といってもそれは憐れむとかよりも、ただ相手に思いを馳せるといった類の。
だって、ウツロイドが大量に寄生しているところとか見たら
「こいつ、もしかして相当に闇深…?あっ(察し)」
って嫌が応にもなるでしょ。
そしたら、恨んでいる相手であっても同情くらいはできるだろうし、何より寝覚めが悪いじゃん。
「あの時自分におとなしくお仕置きされていたら…」って。
…ウワァ、頑張ってここまで書いたけれどこれは無理〜〜〜〜〜
自分で考えたらこんなのできる気がしないわ、嫌いな相手なんて赦すはおろか同情すら無理、ちょっとでも考えるのすら嫌だわ。
…え?でもなんでポケモンはできるかって?
う〜ん…
ポケモンは人間()できているからそういうことができるんです(強引)
かつては4章でMIMIがどんなひどい目に遭ってもルビーを信じ抜き、トゲたろうもまた然り。
今回の主役である「バカさ」に付き合う「バカさ」を持っているようなダラーもまたいわんや、です。
それにほら、近くのシルヴァディもそういう目をしてるし…ね?
こいつらポケモンはすごいんです。
今回の結論はこれです。
「ポケモンってすごい」。
まとめ
わたしはここまでに書いてきたような構図を指して、
「ダラーはサンだけでなくザオボーもまた助けようとしていた」
とまで言ってしまってもいいと思うのです。
作中終盤、孤立無援に陥り破滅がほぼ約束されていたザオボーにとって残されていた選択肢は「どう破滅するか」くらいで、ある意味、一番穏当な選択肢たるグラジオから逃げ出してしまっていた以上、そこにダラーが現れたのはまさに九死に一生を得るかのようなもの。
多少ひどい目には遭わされるだろうけれど、でもそれって結末から考えるとむしろ感謝できるレベル。
だからダラーの目には同情や寝覚めの悪さだけでなく、もしかしたら「助けられる相手を助けられなかった」後悔までもがある…のかも。
が、これはいささか結果論に過ぎるので、ここまで読んでくださった人であってもあまり賛成は頂けないかもしれません。
でも「ポケスペのポケモンたちはニンゲンよりもよくできた生き物である」ということくらいであれば頷いていただけるでしょうか。
彼らが頼りになるから人間たちはポケモンたちを頼るし、ポケモンもそれに応えてくれる…こういう例はポケスペにおいては枚挙に遑がありません。
わたしもポケモンのいる世界で生きたいよ〜〜〜〜〜
とはいえ冒頭に掲げたように大前提として、ポケモンをはじめ他の生き物を過度に擬人化するのは気を付けるべきこと。
わたしのここまでのことも解釈の一つに過ぎず、しかもそれはやはり明後日の方向に外れたものかもしれません。
ダラーがウツロイドが去っていく空を見ていたのは単に明日のご飯のことを考えていたからかもしれず、
また、ダラーがエーテルパラダイスに現れたのは、ウツロイドみたいに(?)「ザオボーのことをエサだと思っていたから」かもしれないのですから。
最後に、わたしはポケスペのザオボーを見ていると「悪とは凡庸なものである」という言葉を思い浮かべずにはいられません。
ゲームのザオボーは同じく凡庸だけれどどこか三枚目であり、なのでかそこまで酷い目に遭ったりはしませんが、
ポケスペのザオボーは同様に小者で凡庸、だけどそのくせにやることはせこいのにえげつない、そして最期は破滅と、こちらは逆にとことん「悪とは凡庸なものである」を地で体現します。
“悪の中の悪”のはずのサカキ様がうっかり星の危機を救うのとはあまりにも対照的です。
わたしがちょくちょく『サン・ムーン編』のラスボスはウルトラネクロズマではなくザオボーと言っているのはこういうことを思うからなのです。
また、山本先生の脳内主題歌プレイリストを見ても、ザオボーは「かもめ」「サルビアの花」といった曲が当てられており、そこからは彼が女性への執着が少し強い、けれど自信なさげな、つまり、どこにでもいそうな“普通な”男として捉えられていることがわかります。
そんな“普通な”男にこの結末。
容赦ないのう。
…そうそう、よくよく考えるとザオボーがルザミーネに執着しているってゲームにはないポケスペのアレンジなのよね。
わりと最近までがっつり混同していました。
その一連の描写もまぁ力が入っていて、相変わらず「これ、子ども向けか…?」っていう感じなのよね…こわいこわい
さて、お読みいただきありがとうございました!
サン・ムーン編をメインにした記事を書いたのはこれが初めてかな?
山本先生の今年のサンのはぴばツイートによれば、来年には通巻版もいよいよ『サン・ムーン編』に入ってい…ける?ようです。
とても楽しみですけれど、とはいえあくまで予定は予定。どうなっても気長に待ちたいと思います。
それでは〜!