ポケスペ63巻の感想
言われる前に気付きたかった。
- はじめに
- 深読みしろと言われたら…
- 共通点を探してみよう
- 大義が人の目を逸らさせる
- 誰かを想いやる心
- まとめ
- おまけ①:この記事だけでは物足りない人へ
- おまけ②:フラダリは失敗の本質を言い当てている?
はじめに
最初にファンによる非公式宣伝を。
『ポケットモンスターSPECIAL 63巻』が11/28に発売となりました〜!
現在物語は、前巻である62巻より「オメガルビー・アルファサファイア編」がスタート。
成長したルビー、サファイア、エメラルドに会えるよ!
「昔は読んでいたけど今は…」という人にもおすすめだよ!
わたしも復帰したのはこの章からでした。
と前振りしつつも、今回の記事はこの巻を含めてポケスペをかなり読んでいること前提の内容なので、あまり読んでいないという人は読んでから改めて来ていただく方がよいかもです。
深読みしろと言われたら…
63巻でわたしが一番印象に残ったのは、山本先生の「作者のことば」…で語られていた作中のあるギミックでした。
まぁ、連載版および先行版で内容は知っているから物語に関しては、ね。
しかしなればこそこのギミックについては…くそう…自分で気付きたかったぜ……
その「作者のことば」はこのような一文で締めくくられています。
(前略)
この対比によってぼくらは何を語ろうとしていたのか?深読みするのもご一興かと思います。
(63巻、作者のことば)
こんなフリをされたら、わたしとしては挑まざるを得ません。
とはいえこの記事ではネタバレをできる限り控えるためにあんまり細かくは書かないことにします。
「何と何が対比されているのか」についてもね。
気になる人は63巻をはじめとしてポケスペそのものを読んでくれい。
共通点を探してみよう
さて、ではレッツ考察タイム。
「対比」と聞くとついすぐに「違い」から探したくなりますが、例えば「犬」と「猫」の対比はすぐにピンと来やすいけれども、「犬」と「レンガ」の対比だとイマイチしっくり来ないように、対比されているものどうしには基本的には何かしらの「共通点」があるはずです。
まずはそれを探してみることにしましょう。
で、わたしの考えるフ○○○と●●ンの「共通点」ですが、それは
「他人やポケモンへの痛みや苦しみに鈍感になっている点」
ではないでしょうか。
で、なぜ彼らがそれらに対し鈍感になっているのかと考えると、それは
両者それぞれに「美しいカロスを取り戻す」や「隕石からこの星を守る」というような“大義”があったから
だと思うのです。
「美しいカロスを取り戻す」ためには「選ばれていない者」が苦しんだり、何かを奪われるのは仕方ない。
「隕石からこの星を守る」ためにはポケモンたちから生体エネルギーを奪ったり、事実を隠して誰かを不安にさせるのも仕方ない。
みたいに。
“大義”が、そこに存在している誰かの苦しみを見えづらくしている。
大義が人の目を逸らさせる
これらの2つの共通点を踏まえることで、何が「対比」され、そしてそれによって何が語ろれようとしていたのか、ということが浮かび上がってくるように思うのです。
まずわかりやすいところで言えば、「悪」のフ○○○/「善」の●●ン、の対比でしょうか。
地方を破壊せんとするフ○○○に対し、星を守ろうとする●●ンは真逆に見えますもんね。
でもどちらも、“大義”を掲げ他者に苦痛を与えている(/与えることを正当化している)という「実際にやっていること」から見ると、同じものにも見えてきます。
わたしは、これが先生方が同じ構図を使った理由だとも思ったり。
両者が「同じこと」をしているとするのなら、物語の演出としては「同じ構図」を使うことでそれがよりハッキリとしますもんね。
そうなるとこの「対比」は皮肉っぽく映ってきますね。
善も悪も一緒やんけ、みたいな。
だとすると、先生方が「語ろうとしていたこと」とは、
「善」なんてものも一皮剥けば「悪」と何ら変わりない
というようなシニカルなものなのでしょうか。
…ストーリーにダークさを練りこむことを全く辞さないポケスペなら案外、そうなのかも?
誰かを想いやる心
とはいえポケスペと言えばやっぱり愛と勇気の物語。
きっとどこかに救いを忍ばせているはずです。
というわけで、わたしが思い出したのはこの言葉。
本当の美しさは心の美しさだ!!
誰かを愛し、想いやる心そのものなんだ!!
強大な力にすべてをのみこまれる前に、そんな気持ちを思い出してくれ!!
(22巻、p128)
おそらくポケスペの中でも最も有名であろうルビーのこの名セリフから考えると、ポケスペにおいて「危機を退ける力」とは
「誰かを犠牲にして得られる力」
ではなく、
他者の気持ちや痛みに想いを馳せるような「誰かを愛し想いやる心」から生まれるもの
ではないでしょうか。
現実は知らんけど
それはフ○○○と●●ンの計画がどちらも成就しなかったことからも明らかですし、それに、XY編においてフ○○○の野望を退けるきっかけになったのはエックスのエスプリに対する共感であり、ORAS編において星の危機を救ったきっかけもやはりルビーの思いの吐露ですもんね。
だから実際のところ、フ○○○や●●ンが真に「対比」されているのはエックスやルビーと、なのでしょう。
△:「フ○○○」と「●●ン」が対比されている
◯:「フ○○○と●●ンの対比」が「エックスやルビー」と対比されている
で、もう一つ、ここでルビーが「強大な力にのみこまれる(前に)」と言っているところもまた注目すべきポイントだと思うのです。
これは4章ではアオギリ・マツブサに向けられたものだけれど、ORAS編に目を向けるとそれこそまさに
フ○○○や●●ンの、「“大義”を掲げることによって他者の苦しみを見落としている姿」そのもの
ではないでしょうか。
ここで「強大な力」という言葉が使われていることと、どちらの組織も強大な力を持った装置を使用しようとしていたことは奇妙な、けれど必然的な符合のようにも思えます。
最後に、ここからさらに少し突っ込んで考えると、“大義”の「善悪」なんてものには実のところあらゆる場面においてあまり意味などない、とも思えてきたり。
「正しい主張/間違った主張」という軸ではなく「強大な力にのみこまれる」ことにこそ問題の本質があって、そしてそこからは「危機を退ける力」なんてものは生まれて来ない。
先生方がこの対比を通して「語ろうとしていたこと」とは、わたしはこういうことかなぁ、と思いました。
まとめ
このブログはもうすぐ開設して1年になります。
SNSなぞついぞやって来なかったので、この1年は夢のようなことばかりでした。
強く実感したことは、『ポケットモンスターSPECIAL』という作品は多くの人に愛されているから25年も続いて来たのだなぁということです。
わたしは一時期離れていましたが、その間にも先生方が描き続けてくれて、そして何よりそれを支える多くの人たちがいたからこそ、今またわたしは改めて作品に触れることができたのでしょう。
わたしのへんてこりんなブログなどとてつもなく微力ですが、それでも願わくば次の25年を支える内の一人になれることを願ってこの記事を締めたいと思います。
お前はいつまで先生方を働かせるつもりなんだ
…思い起こせばこのブログ、やれゲーチスがどうのフラダリがどうのと悪役の話ばかり。
はい、今まであまり考えて来ませんでしたがわたしは多分悪役フェチなのでしょう。
深読みしろと言われたら、深読みするのが世の情け。
ラブリーチャーミーな敵役フェチ。
これからもどうぞよろしくお願いします。
それでは〜!
おまけ①:この記事だけでは物足りない人へ
この記事で考えてみた「“大義”が行為の結果(/意味)から目を逸らさせる」というモチーフ、ポケスペにおいて使われているのはおそらくXY編・ORAS編だけでなくBW・B2W2編もそうだとわたしは思っています。
B2W2編において山本先生が参考にしたとする作品の一つ(『A3』/森達也,集英社)に、そうした内容が含まれているのです。
B2W2編はXY編・ORAS編と連載時期もなぜか重なっている(より正確に言うなら「前後している」だけれど)ので、近いモチーフが使われても不思議ではないでしょうし。
詳しくは以前の記事の真ん中あたりで書いてみたので、よければ見てみてね。
おまけ②:フラダリは失敗の本質を言い当てている?
なぜ「他者の苦しみから目を逸らす」ことが問題の本質なのかと考えると、倫理や道徳の面の問題はもちろんですが(けれど「人に優しくしないといけない」なんて眠たいことを言いたいんじゃないぜ)、何より一番は「認識が現実と乖離している(/く)から」だと思うのです。
「ある行為」がどのような「(現実における)結果」をもたらしているのかがわからなくなること以上に怖いことはありません。
それはわかりやすい例で言えば、「売り上げの変化を一切見ずに業務の改善をしようとする」でしょうか。
そして、それがどれだけ無謀で不可能なことかは言うまでもありません。
ましてや、それを
「私は正しいことをしているから売り上げの変化なんて見なくても大丈夫だ」
とか
「私もおかしいとは思うけれど、上のお偉いさんがやれと言っているので」
なんて正当化している人がいたら「こいつ大丈夫か?」って不安になりますよね?
それです。
「行為」と「(現実における)結果」が乖離することはおそろしいことなのです。
で、認識が現実と乖離していくと何が起きるかと言うと、不測の事態や変化に気付いたり対応できなくなると思うのです。
それらは常に「現実の領域」で起きることであるので、ゆえに、現実から目を逸らしている者はそれらに対応することが難しくなる、はず。
ポケスペにおいてそれを象徴しているのがXY編におけるフレア団だとわたしは思っていて、60巻p17〜19のAZのセリフが指摘していることとはそれだと思うのです。
「か弱き者たち」の“現実的な”抵抗を「侮った」ことが、フレア団の失敗のはじまりですもんね。
そしてまた、それに反論するフラダリのセリフがすごいのです。
いや、
この大義をまっとうするにはおまえの心が弱すぎたのだ。
(60巻、p19)
「現実を見なかったのがお前たちの失敗だ」という指摘に対し、
「心をもっとparalyze(麻痺)させなければならない」
=「現実をより拒絶しなければならない」
と高らかに宣言する男、それがフラダリ。
やっぱりたまらないですね、この人は。
このシーン以降、フラダリをはじめとするフレア団員たちの言動はより常軌を逸したものになっていきますが、ゆえに彼らに失敗や破滅が近づいていったのもまた必然なのでしょう。
ちなみに、ここで「弱さ」という言葉を使っているのも面白くて、「弱さ」を嫌うのなんてまさに悪役のド直球。
でも、弱さや優しさとは「現実への反応」そのものなので、つまりそれこそが「危機を退ける力」だと思うんです。
それは創造的な力であり、どうりで破壊を望むフラダリが嫌うわけです。
同時に、いわゆる“強さ”−−−多くの人が「危機を退ける力」だと錯覚しているもの−−−なんてものは、実はそれこそが「危機の本質そのもの」だったりして…
と、記事の内容とうまく繋がったところで今回の記事はおしまい。
こんなところまで読んでいただきありがとうございました〜!
それでは〜!