【ポケスペ考察】主人公と「悪なるもの」はどのように関わってきたのか?
主人公たちと悪についての簡単なまとめと考察。
はじめに
この記事は基本的にまどろっこしいことをまどろっこしく書いているだけなので、気になる部分だけ読んでいただくので十分だと思います。
また、別にこれが「完璧な命題群である」というつもりは全くなく、ポケスペの話をしたり、考えたりする上での一つの足掛かりになったらいいなぁ、くらいのノリです。
気軽にいきましょう。
それに、ある意味本題はもう一つの記事の方にあるので、そっちから先に読んで、気になった箇所はこちらの記事に戻っていただく、というのが一番かもしれません。
それでは行ってみよ〜!
命題1:主人公と悪役は対立しない
いきなり飲み込み辛い命題かもしれませんが、このブログに辿り着いてしまったからにはまぁお付き合いくださいませ。
たい-りつ【対立】
[名](スル)二つのものが反対の立場に立つこと。また、二つのものが互いに譲らないで張り合うこと。「兄と−する」「意見が−する」「−候補」
1-1:主人公は「巻き込まれる者」である
例えば1章のレッド。
彼の旅の目標は「最強のポケモントレーナーになること」であり、「ロケット団を倒すこと」ではなかったですよね。
他にも、4章のルビー・サファイア、7章のダイヤ・パール・プラチナ、10章のブラック・ホワイト…と、挙げだしたらキリがないほどに、彼ら彼女ら主人公たちの旅の目標が「悪を打倒すること」だったことはないのです。
これを先に提示しておいた辞書の表現で言えば、彼ら彼女らの旅の目標やゴールが、悪役の
「反対の立場に立つこと」
でも
「互いに譲らないで張り合うこと」
でもあったことはない、となるでしょう。
みんな悪と戦う際には巻き込まれる形で、なんです。
とはいえ3章・9章のシルバーとラクツのように旅の目標が最初から「悪を打倒すること」だった主人公もいるにはいるけれど、しかし、例えば以下のラクツのセリフが象徴するように
ボクは国際警察に
育てられた。
(中略)
その教えに従って
ボクはキュレムを助け、
プラズマ団をせん滅する。
たとえ解任されようと。
ボクは
その生き方しか知らない。
(54巻,p87〜88)
彼らの冒険はスタートが「ただ一つの生き方を決めざるを得なかった」かのようなものであり、やっぱり”巻き込まれて”いる形になっているのです。
1-2:主人公たちは“仕方なく”悪役と対峙する
例えば4章のルビー・サファイアや14章のサン。
このあたりの機微を巡ってルビーとサファイアは一度決定的な仲違いしてしまったり、サンは当初ソルガレオを乗りこなせなかったりしました。
多くの主人公たちにとって悪と戦うのは“巻き込まれて”ということもあり、大抵の場合は“仕方なく”なのです*1*2。
他にも12章なんかもそれで、彼ら彼女らの旅とは逃避行でした。
フレア団の野望の阻止のはじまりはティエルノやサナの“攻撃的防御”みたいなノリから始まっていて、
まずは第一歩目として、
敵の本拠地を探し出し、
こっちから
乗り込むことを
提案したい!
ずっと追われっぱなし、
ずっとにげっぱなし!
この状況から脱するには
これしかないと思う!
(全て58巻,p162〜163)
この“危うさ”*3を巡っての逡巡や後悔、成長などがあったのも12章の見せ場の一つでした。
そして、これもやっぱり“巻き込まれて”“仕方なく”です。
また、少し視点を変えてみましょう。
先に引用したラクツのセリフはこの視点ににおいても象徴的なものであり、彼がプラズマ団と戦うのは
ボクは
その生き方しか知らない。
(54巻,p88)
からであり、「自分の主義・主張がプラズマ団と違うから」ではないですね。
一つ付け加えておくと、ここで彼の言っている「その生き方しか知らない」とは、ここまでに言ってきた“仕方なく”とは必ずしもイコールではないかもしれないけれど、それでも彼にとって「のぞんで・すすんで」ではないことは間違いないでしょう。
1-3:主人公と悪役は似ていることがある
特に印象的なのは2章のイエローとワタルでしょう。
2人は同じ出身で同じ力を持ち、同じくポケモンに対する愛情は深い。
けれどこの2人がただ一つ大きく異なっていたのは「人とポケモンは共存できる/できない」という想い…ではないと私は思っていて、ここは後述の「2-2」に譲ります。
それでもこの2人が似た者同士であることは間違いないでしょう。
他の章で言えば3章のゴールドとヤナギ、12章のエックスとエスプリの関係性などもそうでしょうか。
この「1-3」は後述する「命題3」とも重なっている部分が多いので、また後で改めて振り返ってみることとします。
この命題のまとめ
では、以上の「1-1〜3」までを簡単にまとめてみましょう。
ポケスペにおける主人公たちは
- それぞれの目標を持って旅に出る
- 悪役とはその過程で“巻き込まれる”形として戦う
(1. 2. は時に、悪に“巻き込まれ”たがために旅に出ざるを得なくなる、という形もとる) - 主人公と悪役が戦うのは立場の対立のためではない
- 主人公と悪役は似ていることがある
という感じですね。
これらのことから私は、ポケスペにおいて主人公と悪役は
「正義/悪」みたいな二項対立的なものとしては描かれていない
と思うのです。
もちろんその衝突の中で両者それぞれに譲れないものがぶつかったり、対照的・対比的なものも出てくるわけだけど、でもポケスペにおいてそれは、両者が「反対の立場に立って」いるから、としては描かれていないと思うのです。
ぶつかるのはあくまでそれぞれの道が交わったがためであり、「対立する存在」が「それぞれの主義・主張を賭けて」ではない、みたいな。
以上のことから、私は「命題1」に
主人公と悪役は対立しない
という言葉を選んでみた、というわけです。
命題2:「悪なるもの」とは隠すことから生まれる
次は「悪なるもの」について。
また、「悪(/悪役など)」「悪なるもの」と分けて表現している理由もここで。
2-1:悪は常に隠されている
例えば1章のサカキ。
例えば3章の仮面の男。
例えば4章のアオギリ。
例えば6章のガイル・ハウダウト。
と、悪が正体を隠していたり、暗躍していたりする例は枚挙に遑がありません。
それは「悪事は隠れて行うもの」ということもあるだろうけれど、私は同時に(あるいは、順番が逆で)
「隠すこと」こそが「悪なるもの」のはじまり*4
であり、
「悪は正体を隠す」「悪事は隠れて行うもの」とはその似姿に過ぎない
のでは、とも思ったりします。
悪は「悪なるもの」の影に過ぎない?
ここをさらに踏み込んで言えば、私は
悪人や悪事とは「悪なるもの」から伸びた、現実における影のようなものに過ぎない
なんて言いたくなったりもします。
これに関連することとして、私が「悪(/悪人/悪役/悪事など)」「悪なるもの」と使い分けて表現している理由ですが、違うものは違うものとして扱わなければならないと思うからです。
で、「悪」と「悪なるもの」はやっぱり違うよなぁ、と。
これらを示唆する一例として、仮に「悪の本質」なるものはあくまで「ある人」や「ある集団」そのものにあるとするなら、“善良な”人々が行う「悪」−−−例えば、13章のデボン・コーポレーション−−−はどのように考えれば良いのだろう?
2-2:「悪なるもの」は現実を歪める
これを一番象徴的に表現しているのは12章のラスボスであるフラダリでしょう。
彼の現実認識は歪んでいて、そして同時に彼のその歪みは「現実の歪み」としてカロス地方に災厄として降りかかったわけです。
【ポケスペ考察】フラダリとは、フレア団とは何だったのか - けいのブログ
【語りたい】#3 フラダリとは、フレア団とは何だったのか【ポケスペ考察】 - けいのブログ
何かを「隠すこと」によって現実の認識は歪み、その歪んだ“現実(への認識)”が今度は実際の「現実」を歪ませる。
こうした関係性が悪の暴走や蔓延の根っこにはあると思うのです。
また、こうしたモチーフはおそらく続く13章にも用いられていて、63巻の作者コメントがそれを示唆していると私は思います。
この記事で書いたような、
「大義」がある行為の「現実的な結果(の意味)」を見えなくしたりすり替えることによって暴走が始まる
というのもまさに「現実が歪む」ことの一つの形態だと思うのです。
そして、そこにはやっぱり「隠すこと」が大きな影響を与えているわけです。
イエローとワタルと「現実の結果」
で、やっと「1-3」で保留していたイエローの話ができるのだけれど、私は2章においてイエローとワタルが最も異なっていた点はこの
「現実をどう見ていたか」
という点だと思うのです。
ワタルはカントー地方の破壊を「理想郷の建国のため」と捉え、「人やポケモンたちに危害を加えている」という「現実的な結果」から目を逸らしていました。
一方、イエローはワタルを“止めなければならない”という戦いの中であっても、「ポケモンたちが傷ついている」という「現実的な結果」を見失うことがありませんでした。
ここ、めちゃくちゃ重要なポイントであり、両者が決定的に異なっていた点だと思うのです。
どれだけ現実に対して反応する力を持っていたのか、という。
私はこの
どんな“仕方ないこと”の中でも決して「現実的な結果」から目を逸らさない
というのがイエローの優しさの源であり、そして何より強さだと思うのです。
そしてわたしが大好きで、勇気をもらっている部分なのです
人によってはこれを弱さと捉えるのかもしれないけれど、でも、この記事の末尾で書いたように、弱さとは創造的な力(=「現実への反応」そのもの)であり、それはやっぱり危機を退ける力なのだと私は思うのです。
ワタルに関しても触れておくと、ワタル(/四天王)は「理想郷にふさわしい少数の人間は同志として残す」と示唆しているので、よくよく読むと「ポケモンと人間の共存」は否定しているわけではないんですよね。
ただちょっとだけイエローより指し示すその範囲が狭かっただけで。
また、幼少期のポケモンの痛みへの共感のシーンを見ていると、彼にはフラダリのような極端な現実感の喪失は感じられません。
また、3章のシルバーとの初邂逅のシーンを見れば、彼がスオウ島の決戦の後には、徐々に閉じられていた現実への感覚を取り戻していっているようにも見えます。
そう考えると、9章の憑き物の落ちたような彼の姿というのは腑に落ちるものがありますね。
2-3:「悪なるもの」は必ず破滅する
この命題の最後です。
とはいえこれに関してはここまでにほとんど書いてしまったようなもので、要するに、「悪なるもの」とは「隠すこと」であり、それによって現実(への感覚)は歪み、喪失していく、ということを踏まえると
現実を失ったものは必然的に破滅する
というシンプルな話です。
これをゲームで例えるなら、
極端に度が合っていないメガネを装着して格ゲー
とか
狂ったレーダーの表示されたFPS
(あるいは、自分だけレーダー表示のないFPS)
みたいなもので、そりゃいずれどこかで袋小路に突き当たるよね、ということです。
サカキの強さと盲点?
ここでちょっと話が逸れるけど、私はこの視点は逆説的にサカキの並外れた強さの理由も少しこじつけられる説明できると思って。
私はサカキがポケスペの悪役の中でも特徴的だと思うのは、悪事を「悪事と認識して」行っている点だと思うのです。
これはここまでの命題に則して考えると、サカキは悪役の中では珍しいほどにかなり「正確な現実認識」を持っている、ということになります。
このことを再びゲームとして例えてみれば、彼は狂ったレーダーではなく、むしろ、「精細なレーダーを持っている」となるでしょうか。
そして、それが他者に対してアドバンテージになることは言うまでもないですね。
そりゃ強いわけです。
しかし、そんなサカキも完敗となった戦いが一つあります。
それは1章のレッドとの決戦。
で、ここの最後のレッドのセリフを確認しておきたいのですが、
イヤ、
一番大きな
計算ちがいは−、
(3巻,p166)
故郷であるこの森を
悪事に使われた、
コイツの怒りに
気づかなかった
ことさ。
(3巻,p167)
これ、すごくないですか?
ここにまつわる構図や繋がりを見つけた時、私は1人ですごい盛り上がったんですが。
ちょっとゆっくり見ていってみましょう。
このセリフ、この記事を書いていて気付いたのですが、レッドは極めて鋭いことを指摘していると思ったのです。
それは、
かなり正確な現実認識を持つサカキにも「盲点」があり、それは「トキワの地に関する盲点」である
と。
かつて私はこんな記事を書いたことがあるのですが、
【語りたい】#2 サカキ様の半生を考える【ポケスペ考察】 - けいのブログ
そこで私は
サカキはトキワの生まれやその地に誇りを持っているけど、そんな彼が1章ではその地を傷付け破壊しまくっていたのはなぜだろう?
と考えていたのです。
で、まぁ細かいところは興味あればそちらの記事を読んでいただくとして、今回でその疑問はよりすっきりとしました。
そこに「盲点」があったからサカキはそういうことが“できてしまって”いた
のではないのか、と。
ワタルがカントー地方の破壊という「現実的な結果(の意味)」をすり替えたように、サカキもまた、故郷の地の破壊という「現実的な結果(の意味)」をすり替え、隠し、見ないようにしていた(からこそできた)のでは、と思ったのです。
自分の中の「その地に対する誇り」を見ないようにしてしまえば「誇りの地を破壊する」という矛盾した行為を行うことができるようになるけれど、代わりに、他人の「誇り」も見えなくなってしまうのはある意味当然の帰結と言えるのではないのでしょうか。
それは即ち彼の「精細なレーダー」の中でそこだけが“狂っていた”ということであり、それゆえに、それがそのまま唯一の急所となってしまった、と。
出来過ぎなほどに美しい構図です。
本当にすげえ。
悪は滅びる、が…
ポケスペにおいて悪は栄えた試しはなし。
でも私はそれは「勧善懲悪のストーリーだから」とか「子ども向けの作品だから」じゃないと思うんです。
「そうなるべくしてそうなっているから」だと思うのです。
…さて、ここには見ないようにしていた問題が一つ。
前述のように、この構図は勧善懲悪みたいなものによって導かれたものではないので
「悪なるもの」は滅びるが、他のみんなも滅びちゃった
ということがあり得るわけで、現にカロス地方は最終破壊兵器の起動によってそうなりかけたからね。
そして今現在のリアル世界もねぇ…後世の人間が笑ってこの箇所を読めますように
主人公たち本当に頑張っているよね。
この命題のまとめ
私は命題1で「主人公と悪役は対立しない」としましたが、それでも唯一対立する点があるとするなら、それは
「現実」をどれだけ見据えることができているか
という点にあると思います。
そしてそれは、主人公たちは「悪役その人」ではなく、その背後で作動している「悪なるもの」と対立しているのだと思うのです。
そしてこれこそが「悪なるもの」と主人公たちを分かつポイントであり、物語の肝の一つなのだと思います。
命題3:主人公は「悪なるもの」が「できなかったもの」を見せる者である
最後の命題です。
今回の記事はなるべくややこしい話にしたくないのであんまり引用はしたくなかった上に、唯一のそれが孫引きになってしまうのが申し訳ないんだけど、ここで一つだけエーリック・フロムの引用をさせてください。
生命はそれ自身の内的ダイナミクスを持つ。それは成長し、自らを表出し、自らの生を生きようとする。もしこの意欲を阻害されると、生を志向していたエネルギーは、変質過程を経て、破壊を志向するエネルギーへと変化する。言い換えれば、生への衝動と破壊への衝動は、相互に独立な要因ではなく、逆の相互依存関係になっている。生への衝動が阻害されればされるほど、破壊への衝動は強くなる。生が実現されればされるほど、破壊性の強度は低くなる。破壊性とは、生きられなかった生の結果なのである。(Fromm,Escape from Freedom,p.182*5)
これをすげえ雑に要約すると、
「悪なるもの」とは伸びたいように伸びることを邪魔された怒りを苗床に育ち、
反対に、伸びたいように伸びると生命はすくすくと育つよ!
でしょうか。
これを踏まえて考えると、「悪なるもの」に対するアンチテーゼとは
「戦って勝つこと」
ではなく
「悪なるもの」が「することができなかった生き方をすること」
だと思うのです。
…これは見方によってはかなり残酷なことといえば残酷なことなのかもしれないけれど。
ヤナギとゴールド
それは例えば具体的には、特に3章のヤナギとゴールドの関係が象徴的かなぁ、と。
ヤナギがラ・プリスとラ・プルスに抱かれたヒョウガを見つめるシーンは、まさにヤナギの「望んでも生きられなかった生」を象徴しているようであり、同時に、(あれはセレビィが見せた幻であったとしても)その「生きられなかった生」が一瞬でも実現した様はヤナギの凍てついた心を溶かすには十分だったのではないでしょうか。
そして続くゴールドとピチュたちとのこれからの長い時間に想いを馳せるシーンですが、これもやはり自身の「生きられなかった生」への想いと、それがようやく叶ったことによって、ここではじめてヤナギは他者を受け入れた(=現実を受け入れた)シーンのように思うのです。
ここに「ゴールドの姿」が大きな影響を与えたのは言うまでもありませんね。
だから、ヤナギも以降はワタルよろしく「憑き物が落ちた」=「現実に帰ってきた」のではないのかなぁ、と私は思ったり。
物理的にも現実に帰還したし。
アカギとダイヤ
他には8章のアカギとダイヤの会話。
こっちはヤナギ−ゴールドほどシビアではないけれど、
えーと、
よくわかんないけど
つまり…、
そこ、
ちがうだろーが!!
って言ってくれる、
ツッコミが
いればよかった
ってことだよね〜。
(全て40巻,p132〜133)
というダイヤのセリフが全てを物語っていると言えるでしょう。
…あれ?
アカギもヤナギ同様に物理的に現実に帰還してるぞ…?
これは多分に偶然とはいえ、物語的・演出的には奇妙な符合と捉えてもいいんでしょうかね?
まとめ
ここまで読んでいただいた方、もうとにかくお疲れ様でした。
本文でもうほとんど書きたいことは書いてしまったので、まとめはこれくらいとします。
そして繰り返しになってしまいますが、この記事を書こうと思ったきっかけは『ソード・シールド編』4月掲載分(6月号)の感想を書こうと思ったからなのです。
よければそちらも見てみてね。
ただし、結構がっつり内容に触れているので未読の方には全くお勧めできません。
最後に、『命題2:「悪なるもの」は隠すことから生まれる』『2-1:悪は常に隠されている』の着想のきっかけの一つになった、春ねむりさんの「生きる」(『春火燎原』,2022)のOfficial Perfoemance Videoを置いておきます。
この曲の
そしてかくされた悪を注意深くこばむこと
うつくしく生き絶える 愛してるを重ねて
ゆるやかに滅びてく 惑星のかけらになるまで
How beautiful life is!
いつかみんな生き絶える さようならを重ねて
ゆるやかに滅びてく この惑星で生きている
How beautiful life is!
というリリックたち、
すごすぎません?
悪とは「かくされ」ているもので、そして『生きる』とはそれを「注意深く」「こばむこと」。
“戦って/打ち勝つこと”じゃないんです。
そして、有限の時間の中を現実において生きていく(=「この惑星で生きている」)ことが『生きる』ということであり、それはなんて美しいことなんだろう、と。
めちゃくちゃかっこいいです。
こっちのライブバージョン(2:34:06〜です)も、ライブ全体を含めてとてもいいよ!
この動画が2023年5月時点で再生数が4桁しかないの、おかしくない…?みんなもっと見ようよ
春ねむりさんを知ったのは山本先生のTwitterからだったのですが、久々に本当に衝撃を受けたアーティストでした。
現状、日本よりも海外の方で評価されているようだけれど、これは本当にもったいないことだと思います。
これだけの表現を、同時代の、しかも母国の言語・文化として味わえる意味は大きいよ。
そして、もちろんそれは『ポケットモンスターSPECIAL』も一緒です。
最後、話が少し脱線しちゃったかな?
まぁいいや。
それでは〜!
*1:でも冷静に考えてみれば、私たちだって生きているのは「生まれてしまったからには仕方なく」であって、“仕方なく”って極めて普通なことだよね?
*2:もちろんこれは、だから彼らあるいは私たちは「適当にやっている」、ということを意味しない。生命が生きる中で行うことって“仕方ない”ことばかりだけど、でも「必死に」やっていることばっかりでしょ?
*3:これはワイちゃん頼りの状況を変えたいという想いから出た発言だったけど、短期的な結果としては余計な危機を呼び込んでしまいワイちゃん頼りの状況をより露わにしたというのはとても皮肉であり、こういうことをやるのが本当にXY編の容赦なさだなぁと思った
*4:より厳密に言えば『「隠すこと」を「隠すこと」が「悪なるもの」のはじまり』としたいんだけど、ややこしくなり過ぎるので今回は割愛
*5:参考文献より、Fromm,E. Escape from Freedom, Farrar & Rinehart, inc., 1941.