『ルギア爆誕』と「シナリオえーだば創作術」を観て
オーキド博士への考察だけでも読んでもらえたら嬉しいな。
たぶんここでしか読めません。
はじめに
先日、劇場版ポケットモンスターの第2作目である『ルギア爆誕』を観ました。
Twitterの方にはちらっと書いたのだけれど、この映画は映画自体が面白かっただけでなく、色々と考えてみたくなってしまうような作品だったんですね。
そう思わせる魅力の一つに、脚本の首藤剛志さんのコラムでの解説の存在があると思うんです。
(『ルギア爆誕』にまつわる部分は184〜208回くらいまで)
作り手側からの解説ってどんなものでも面白いと思うんだけれど、このコラムもその御多分に洩れず……というかそれ以上に(?)、めちゃくちゃ面白かったんです。
今回の記事は映画の感想に加え、コラムの感想も含めてつらつらと書いてみようかなと。
『ルギア爆誕』の感想
わたしの映画の一番の感想は
「ポケモンたちの描写がいいな!」
でした。
具体的なシーンとしては、特に
- ピカチュウがサンダーに電撃でコミュニケーションを図ろうとするシーン(30:47〜)
- ルギアが潜水に向けて背ビレ(?)をパタパタと畳むシーン(49:03〜)
- 海から上がったピカチュウが身震いするシーン(65:58〜)
- 救命ボートにピカチュウ→ロケット団→サトシの順で向かうシーン(59:57〜)
です。
ニッチなシーンばっかりとか言わないで
以下ではそれぞれについてちょっとだけ。
1. ピカチュウがサンダーに電撃でコミュニケーションを図ろうとするシーン(30:47〜)
このシーンってピカチュウは誰に命じられたりするわけでなくサンダーとコミュニケーションを取ろうとしているんですよね。
これはちゃんとポケモンにも独立した意思があることを象徴・表現しているようで、それがいいなぁと思ったんです。
しかもそれが「電撃」という、人間が普段行うコミュニケーションの技法とは全くの別種のものであるのもいいんですよね。
コミュニケーションというのは別に言葉などに限定されるものではない多様なものであるということが示されているようで。
おまけに、「ニャースの通訳」が加わることでそれが周りの人に新しいコミュニケーションとして広がっていくというのもまたいいなぁと。
2. ポケモンの生態の描写ルギアが潜水に向けて背ビレ(?)をパタパタと畳むシーン(49:03〜)
3. 海から上がったピカチュウが身震いするシーン(65:58〜)
これらのシーン、はっきり言って本筋とは何の関係もないシーンだと思うんです。
ピカチュウのなんか隅っこの方だし、ルギアのだってカットしても映画は成立するわけで。
でもだからこそいいというか、むしろなくてはならないというか。
完全に推測だけど、これらのシーンを映画に入れた人は動物が好きな人なんじゃないのかなと思ったんです。
例えば犬とか猫とかをちゃんと印象的に描こうと思ったら派手なシーンを描くよりも、後ろ足や背中の曲線といった細部を綺麗に描くとか、体を掻くときのポーズの特徴をきちんと捉えて描く、などといった「ほんのわずかな部分」を描いた方が「伝わるもの」になると思うんです。
ルギアの背ビレパタパタとか、ピカチュウの身震いの根底にあるであろうこうした発想って、普段から人間以外の生き物にも関心を持っていたり、注意を払っている人でないとなかなか出て来ないんじゃないのかな。
で、こうした描写によって観る側は「いないはずの生き物の息遣い」を感じたり、作り手側の「これが描きたいんだ」みたいな思いとか、記号的ではない「そこに生きている生き物への視線」を感じられて、そうして作品の世界に没入できるんだと思うんです。
だから、こうしたシーンこそすごく大事だと思ったんです。
要は、美は細部に宿る、という奴ですね。
首藤剛志さんの影響はどれほどか?
こういう描写が首藤さんの脚本にあったことなのか、他のスタッフの人が加えたものなのかはわからないけれどね。
でも、首藤さんのコラムからはポケモンへの視線というのがはっきりとあるので、首藤さんの脚本や存在があったからこそこれらのシーンがこの映画に入った、ということは言ってもいいのだと思います。
指定や記述があったのなら言わずもがな、直接にはなかったとしても、「そうした視点に立った脚本」の上にはどこかで自然と組み込まれ得るでしょうから。
…実は『ルギア爆誕』の他にももう一作だけ『ルギア爆誕』以降の劇場版ポケットモンスターの作品を観たのだけれど、そちらからはこうした「ポケモンへの視線」みたいなものがどこか抜け落ち、それによって画面からポケモンの息遣いみたいなものが失われてしまっているように感じたのです。
他の作品は観ていないのでその作品だけのことなのかもしれないし、映画とは多くの人間の手によって作られるものなので短絡的に結びつけることはできないのだけれど、でも首藤さんの不在みたいなものを感じたのは事実でした。
4. 救命ボートにピカチュウ→ロケット団→サトシの順で向かうシーン(59:57〜)
このシーンは、ロケット団の3人とピカチュウが危機を前に「捕まえようとする側/逃げる側」という関係性を離れてしまっている、という“笑いどころ”だと思う*1んですが、ここにはそれだけでなく、作品のテーマも強く表現されていると思ったんです。
それは
「ポケモンは危機に対し敏感である」
と
「ロケット団の3人は『ルギア爆誕』のテーマを最も表現している」
という点。
『ルギア爆誕』においてポケモンは、人間よりも危機に対し敏感に反応する力を持ち、そして行動する力も持つ存在として描かれています。
それはウチキド博士のこのセリフによっても明確に提示されていますね。
いえ、危ないのはこの世界の全てです。
それを一番知っているのは、ポケモンたち。
彼らには何もできないかもしれない。
でも、彼らは何かをせずにはいられない。
(50:50〜,映画より筆者が書き起こし)
それを踏まえてロケット団の3人とピカチュウのシーンを見て欲しいんですが、救命ボートに向かう順番は
ピカチュウ → ニャース(が掛け声をかける) → ムサシ・コジロウ → サトシ
なんです。
ここって細かい部分だと思うのだけれど、そんなシーンでも、危機に際しての反応の早さがちゃんと
ポケモン → 人間
の順番となっていて、これってテーマに対する描写の徹底の表れだと思ったのです。
すごい。
ロケット団の3人はポケモンよりも生命力に溢れている?
で、続くシーンである救命ボートに乗り込むシーンがさらに面白く、乗り込む順番が
と、ロケット団の3人がピカチュウを途中で追い抜いたのか入れ替わっているんですよね。
わたしは、これはあたかも
ロケット団の3人の「危機に対する敏感さ(/敏捷さ)」は時にポケモン以上である
ということを表しているようだなぁと思ったんです。
なぜわたしは「敏感であること」に注目するのかというと、生きる上で「敏感であること」って重要なことだと思うからです。
危機を素早く察知すること、そして危機に際した時にパッと動けること。
その上で、ここで一度この映画のテーマを思い出して欲しいのですが、この映画のテーマは「共存」であり、「共存」とは「生きる」ということ。
その「共存」というテーマを最も体現しているのはロケット団の3人であることを踏まえると、ロケット団の3人とはすなわち作中において「最も生きる力に溢れている人たち」と言えると思うんです。
そしてポケモンについても思い出して欲しいんですが、彼らが危機に対し敏感であるということは、つまり彼らもまた生命力に溢れた存在であるということ。
「そんな生命力に溢れた存在であるピカチュウを追い抜く」ほどの俊敏さから、彼らの「生命力の強さ」なるものを感じる……のは深読みのしすぎ、かな?
…とはいえこの順番の入れ替わりは単純な描写上のミスなのかもしれないけれど、でも作中全体の描写の徹底ぶりをみると、ただのミスだとはあんまり思えないんだよなぁ。
まぁ仮にミスだとしてもこうした“意図しない意図”みたいなものが生じていて、それはすごく面白いことであると同時に、ここでも「しっかりとしたポケモンの描写」が重要な意味を持っていると思うんです。
「生命力のない」存在としてポケモンが描かれていたとしたら、「ロケット団の3人がピカチュウを追い抜いた」シーンを観たって心に何かしらの思いが去来することなんてなかったでしょうから。
この項のまとめ
と、まぁこんな感じがポケモンの描写に対する感想でした。
(あんまり表立って書いたりはしないけれど)わたしはポケモン関連の作品においてポケモンの描写に対して結構うるさいんですが、この『ルギア爆誕』はめちゃくちゃ納得のいく描写が多くありました。
ちなみに首藤さんはコラムで何度も、人間にゲットされたポケモンは奴隷、剣闘士(グラディエーター)、あるいはペットなんて露悪的に書いている*2し、ゲームに対する、やや直線的でステロタイプな偏見みたいなものを感じる時もあるけれど、この『ルギア爆誕』に描かれているポケモンたちの姿やポケモン世界への視線は、わたしにはそれらには重ならないように見えたのです。
だからわたしは、首藤さんはこうした表現は「自他に対する強い戒め」として使っていたのではないのかな、と考えたりするのです。
そうした位置に厳しくラインを引いておかないと、
「ポケモンと人間がそれぞれに別々の固有の生命を持っていることを忘れてしまう」
あるいは
「すぐにポケモンを人間にとって都合の良い存在として描いてしまうよ」
というような。
繰り返しになるけれど、わたしが観た『ルギア爆誕』以降のある作品からはポケモンの息遣いみたいなものが消えて、背景や舞台装置の一部に没しているように思えてしまったのです。
また、TVアニメシリーズの某シーズン某話に『ルギア爆誕』をオマージュしたかのようなエピソードがあるけれど、この「首藤エッセンス」みたいなものは失われ、上っ面だけをなぞったかのようでわたしにはまるでピンと来ませんでした。
ポケモンの作品において、ポケモンを“ポケモンとして”しっかり描くことって、やっぱりとてつもなく重要なことなのだと思うのです。
そしてそれはロケット団の3人の姿が示しているように、ひいては人間を描くことにも繋がることのはずです。
彼らはポケモンのいる世界で生きているのだから。
「シナリオえーだば創作術」の感想
さて、ここからは首藤剛志さんのコラムの感想。
で、書く前に一つだけ。
ここで書いているのは基本的に「わたしの感想・感覚」と「首藤さんの解説」の差異についてですが、(このへんてこりんなブログをわざわざ読んで下さるような素晴らしい審美眼をお持ちの方々には不必要な説明だと思うけれど)その意図とは「首藤さんの考えの否定」ではありません。
そもそも、わたしはこの映画や首藤さんのコラム・考え方に対してとても肯定的・共感的ですし。
でも、それなのに「わたしの感覚」と「首藤さんの解説」には差異があって、それが面白いよなぁというのがここを書く動機なのです。
また、首藤さんはこの映画や「共存」について
子供向きに言えば、(中略)『ルギア爆誕』は自分はこの世界にかけがいのないたった一人の存在なんだから、他人にコンプレックスを感じたり、いじめられてしょげたりすることなどない、他人と自分との違いに気づき、他人の存在を尊重しよう……である。
(第208回『ポケモン』映画第2弾以後、第3弾以前 より)
という定義を与えていて、つまり「わたしの感覚」と「首藤さんの解説」の差異を考えることとはこの映画のテーマに即することであると同時に、この映画に触れたからにはここまでやってこそ、だとも思うのです。
だからみんなもやろうぜ
それでは行ってみましょう〜!
オーキド博士の描写・解釈について
色々書きたいことがあるのだけれど、この記事ではオーキド博士の描写について考えてみます。
具体的には、オーキド博士がヘリ内でTVカメラの前で異常気象について解説するシーン(36:41〜)についてです。
このシーンはわかりやすい答えを欲しがっているTVクルーに対し、オーキド博士は滔々と「回りくどい話」を続けて彼らを困惑させるというユーモラスなシーンですね。
ここ、わたしは初見の時でも十分に面白かったのだけれど、首藤さんのコラムもとても興味深いなぁと思ったのです。
後のレギュラーキャラクターは、かなりオーバースイングにした。
ポケモン研究家のオーキド博士は、現地の調査に向かうものの、地球滅亡の危機にあわてる様子もなく、平然と事態の説明をしている。
そんなに落ち着いていられる状態なのだろうか?
だから、自分の役目に忠実な人である。
つまり、どんなことが起ころうと、自分の役目を果たす生真面目な、言い方を変えれば自分本位な人である。
(第199回『ルギア爆誕』登場人物それぞれにも個性 より)
映画のテーマにおけるこの描写の重要さやオーキド博士が「自分本位な人」———「自分」というものを裏切らない人———という部分には大賛成なんですが、他の部分がわたしの感想・感覚とは全然違っているんです。
オーキド博士は策士…というか凄腕ビジネスマン?
この部分を読む限り、首藤さんはオーキド博士を、あけすけに言ってしまえば「空気の読めない人」と位置付けているわけですよね。
でも、わたしはその逆で、めちゃくちゃ「空気を読む力に長けている人」だと思ったんですよ。
…え?どういうことかって?
ちゃんと説明しますね。
いきなりですが、ここで読者の皆様には1つのよくある話を頭に浮かべていただきたいのです。
「ただの水道水を1,000円で売るにはどうすればいい?」
という奴です。
で、これの模範的回答は、
「欲しがっている人に売れ」
ですよね。
……ん?
この構図って、何かに似ていますよね……?
もうおわかりいただけたでしょうか。
あの瞬間って、人々に「回りくどい話」を聞いてもらうには———「1,000円の水道水」が売れる時の如き———絶好のタイミングだったわけですよ。
だって、みんな天変地異とかでもないとそんな話は聞かないでしょ?????
あの時TVの前にいた人たちって、きっとその多くが
「今何が起こっているの?」
「これからどうなるの?」
って思っていた人たちであり、そして、その内の何割かは「普段はそんなややこしい話は聞いたりしないけれど、今は聞く耳を持とうとしている人たち」ですよね。
それってまさに「1,000円の水でも欲しがっている人たち」です。
ただ者じゃないぜ
「他人に話を聞いてもらうこと」ってめちゃくちゃ難しいことですもん。
みんな身に覚えがあるはずだ
それがどんなに大事な話だったとしても、「難しい話」とか「ややこしい話」だったらなおさら。
とはいえ「1,000円の水道水というインチキ」と「科学的知見」みたいなものを同列にして語るのはだいぶアレではあるのだけれど、でも、ここに共通しているのは「何かを欲しがっている人がいる状態」であり、そして、こういう好機を逃さない人ってどう考えても「空気に鋭い人」だよね。
でも実際には「そんなこと考えていないですよ〜」みたいな平然とした顔でいけしゃあしゃあとご高説をぶつオーキド博士…すごいやり手だと思いません?
わたしはそれがツボに入って「やるなぁオーキド博士」と思いながら見ていたので、このシーンはすごく印象に残ったんです。
明らかにただの学者先生サマじゃないですよ。
この人物像を言葉にするなら「状況に鋭敏で、かつそれを利用してみせる度胸と機転のある」人とかになると思うんです。
少なくとも、首藤さんの書く「どんなことが起ころうと、自分の役目を果たす生真面目な」人だとはわたしには思えないんです。
また、
(前略)平然と事態の説明をしている。
そんなに落ち着いていられる状態なのだろうか?
(同上)
のも、「状況がわかっていない」のではなく「状況がわかっている」からこそ、無闇矢鱈とジタバタしたりしないんじゃないのかな?なんて。
ちなみに話は逸れるけれど、「どんなことが起ころうと、自分の役目を果たす生真面目な」人ってオーキド博士じゃなくてジラルダンですよ。
どんなことが起ころうと、コレクターであることをやめない人。
ここについてはこの記事の最後のおまけでちょっとだけ触れているので興味があればどうぞ。
オーキド博士の役目
この「わたしの感覚」と「首藤さんの解説」の差異の根底にあるのって、オーキド博士の役割の捉え方の違いだと思うんです。
首藤さんはオーキド博士の役割を
「ポケモンというものの説明をする役割」
としているけれど、わたしはこれだと部分的なものに過ぎず、より広汎なものである
「知というものを探求する役割」
だと思うんです。
説明というものはその探求の過程の一部分に過ぎないわけで。
わたしは、この違いって些細なように見えてかなり重要だと思うんです。
オーキド博士の役割を「ポケモンというものの説明をする役割」みたいな“部分的な切り抜き”の視点で見ると、確かにあのシーンのオーキド博士は
「危機の状況に無頓着で、役目の遂行で視野狭窄になっている人」
のように見えるけれど、その役割を「知というものを探求する役割」として見るならば
「人々が行くことのできない危険な領域に向かい、そこで得た知見や自らの知識を(しかも、“状況”を活かして巧みに)伝達する人」
と、まるで違うイメージとなると思うんです。
こうした違いが、「わたしの感覚」と「首藤さんの解説」の差異の根底にはあるのだと思うのです。
オーキド博士はなぜ人々から尊敬されているのか?
また、この視点に立つと、オーキド博士がわざわざ専門的な解説をしているのも
彼が「空気を読めない」
からではなく、
「知りたい!」と思っている人に手加減するのはかえって失礼である
と思っているからなのでは?なんて思ったり。
ちなみにこのシーン、TVクルーの演技がまたとてもいいんですよ。
彼らはたぶん
「ジャーナリストの使命とは知識や真実を伝達することである」
なんて思ってなくて、
「予定通りの番組を作る」———おそらく、【3分でわかるこの異常気象】といった感じ?———
みたいなことしか考えていないから、オーキド博士の発言に露骨に困惑しているんですよね。
はぁ…、だからどうだって言うんです?
(37:32〜,映画より筆者が書き起こし)
「知る」という作業の上で重要なことって、結果や答えそのものではなく過程にこそあるのだとわたしは思うんです。
で、このセリフのように「答え」を急かすのってそこを蔑ろにしていると思うんです。
ジャーナリストがそれじゃダメでしょ。
これって、「知りたい!」と思っていない人の典型例じゃないですか?
こういう人には何言っても何も響かないんです。*3
だからこのことは同時に、逆に「知りたい!」と思っている人には間髪入れず、そして伝える側は限界を勝手に決めずに伝えなきゃいけないことも示しているんじゃないのかなぁと。
もちろん「相手に合わせて伝える」ことは大事だけれど、でも、何がわかる/わからない/何が自分にとって必要か/必要ではないか、といったことは受け取った人がその後で決めればいいんですから。
オーキド博士はその知識の豊富さによってではなく、こういう機微をちゃんと熟知し、そしてそれを伝えて来た経験や能力があるからこそ、人々から尊敬を得ているのだとわたしは思うのです。
……これもまた、わたしの深読みしすぎですかね?
復讐者オーキド博士説
最後に、こうした視点をさらに進めたトンデモ仮説を一つだけ。
あのシーン、実はオーキド博士はジャーナリストやジャーナリズムに復讐しているともわたしは思うんです。
…復讐は言い過ぎか。
鬱憤晴らしでもいいや。
なぜそう思うのかと言うと、完全に憶測100%だけど
わたしはぜったい、オーキド博士は日頃からジャーナリストにあんな仕打ちを受けている
と思うんです。
話を聞きに来ているくせに話を聞く気がない人間がやってくる。
(『ルギア爆誕』にはそんなシーンないけど)番組の都合の良い形に発言やその意図を捻じ曲げられる。
(こんなシーンも『ルギア爆誕』にはないけれど)御用学者ばかりがチヤホヤされる。
ぜったいこういう目に遭っている。
ぜったいハラ立っているはずです。
あの場面だって、本当は番組としては御用学者とか自称有識者とかを呼んで「大丈夫、ただちに世界が滅びるようなことはありません」とか言うつもりだったはずですよ。
でも、危険な領域に向かいながら解説をするような命知らず勇敢な人物はそんな人たちからは見つからず、仕方ないからオーキド博士にお鉢が回って来たんじゃないの?
はい、そうなったらやることは一つです。
番組の予定をぶち壊すようなご高説をぶってやればいいんです。
彼らも頭を下げて出てもらっているんだから強くは出られない。
オーキド博士は日頃の鬱憤が晴れさぞせいせいしたことでしょう。
ウチキド博士が気を使って補足(/翻訳)していたけれど、「余計なことしおって」とか思ってたりして
実のところ、こういうのがあのシーンの正体じゃないのかな?
間違いなく「生真面目な」人の所業じゃねえ
……と、まぁ最後のこれはいささか冗談が過ぎましたが、このイメージには少し細野不二彦さんの『電波の城』という漫画のあるエピソードの影響があったりします。
主人公が年末の報道特番のスタジオで交わされる“きれいごと”の中に「戦場のリアル」をぶち込むことで、そこのコンテクストを完璧に破壊するというエピソードがあるんですよね。
このシーンがとても印象的なのは、その行いを通じて主人公は社会や世界に復讐をしていることが示唆されていることです。
「みんなが目を瞑っているいやな話」によってスタジオの正論や美辞麗句といった“きれいごと”のメッキを剥がし、同時に、TVの前で「流れてくる情報」だけを享受する人たちに「リアル」を突きつける、という復讐。
そこを読んだ時にわたしは、報道する際には「何を」「どう乗せるのか」ってめちゃくちゃ重要だし、そして勇気や機転があれば色々な使い方ができるよなぁ、と思ったんです。
で、このオーキド博士のシーンですよ。
……ん?
だとすると…
もしかしたらオーキド博士もまた、ジャーナリストやジャーナリズムにだけでなく、普段「垂れ流されてくる情報」だけを鵜呑みにしている人々にも復讐一発かましていたのかもね。
世界には簡単に理解できる物事などないぞ、自分の頭でしっかり考えることをしなきゃダメだぞ……と。
…ふふふ、いろいろ書いて来たけれど、こうした説を「バカバカしい」と一蹴するなり「ありえない」と打ち棄てるなり、どう捉えるのかはこの記事をお読みくださった方に委ねられています。
「あなた」もまた、「わたし」とは違う存在なのですから。
現場からは以上です。
まとめ
子供のころは何となく感じているにすぎない問いに、大人になって思い当たる……そんな映画にしたかった。
つまり、子供向けを装っているが、対象にしているのは観てくださる老若男女含めた人たちみんなである。
( 第208回『ポケモン』映画第2弾以後、第3弾以前 より)
この部分が全てを語っているように、わたしは『ルギア爆誕』は広い射程を持った作品だと思いました。
誰でも、いつでも、観るたびに何かの発見がある、そんな優れた作品だと思うのです。
作品がそうした力を持っているのは、きっと首藤さんをはじめとしたスタッフの方々が「子供向けだから」と子供騙しに走らず、加減することなく本気で作品を作ったからだとわたしは思うのです。
で、このこともまたこの記事で少し考えてみたように、人の心を真に動かすものは「姿勢」や「態度」である、ということを示唆しているのだと思うのです。
作り手側の「姿勢」と、(わたしができていたのかはわからないけれど)受け取る側の「姿勢」。
「伝えたい!」という気持ちと「知りたい!」という気持ち。
これらが揃った時に人の心は動き、その動きが(首藤さんの言葉で言えば)「自己存在の主張」となって、そして他者との共存の可能性となる、ということなのだと思います。
そして、こうなった時にはじめて「わたし」と「あなた」との「違い」とは恐怖や暴力をもたらすものではなく、楽しさ・あるいは創造性といったような、異なる存在同士が共に生きていくための力の元となるのではないのかな。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
おまけでは映画を少し離れ、コラムに対する感想みたいなものを。
もしかすると記事の話よりもさらに抽象的な話になっているかもですが、興味のある方はどうぞ。
それでは〜!
おまけ
1:「自己存在の主張」という言葉における混同・混乱?
コラムの第197回を元に、再び「わたしの感覚」と「首藤さんの解説」の差異について。
改めてですが、意図するところは「差異について考えてみること」であり、「間違いの指摘」などではありません。
わたしのブログに馴染みの方はご存知でしょうが、わたしは正誤みたいな「切り分け」というものは信用していないのです。
第197回『ルギア爆誕』自己主張で共存
ここの前半〜中盤で語られる死生観みたいなものは、首藤さんは「へそまがり」と書いているけれど、わたしはすごくしっくり来るのです。
わたしも死んだらそこまでだという思いは強い。
続くテーマについてだけど、ここには重要なポイントが含まれていると思うのでちょっと長いけれど引用。
で、生きているなら、自分の可能な範囲内でやりたいことを好き勝手にやるのが理想ということになる。
実際の世界は飢餓状態にあり、その生きること自体が大変なのだが、戦後のいちおう平和な島国(おそらく一生、具体的な戦争状態を経験せずに済むのは、世界中で僕らの世代の日本人ぐらいではないかという気がする)に生まれた僕が、それを気にするのはずいぶん大人になってからである。
そんな日本の状態に甘えて共存を考えると、自己存在を主張しつつ、自分の好きなことをやり、なおかつそれぞれが生きていくということであり、そんなことは無理である。
人はそれぞれ違うものであり、自己存在を主張すれば、一般常識で言う共存は無理である。
違うものが共存する…または、共存していると思うのは幻想である。
幻想であると思いつつ、共存をテーマにしようとしたのが『ルギア爆誕』なのである。
(中略)
いずれにしろ、僕は、人間の共存に対しては、「???」の気持ちを持っている。
なぜそうなのかというと、僕の子供の頃の個人的な環境が影響しているとも思うが、それはこのコラムの編集の方が許してくれれば、そのうち書こうと思う。
( 第197回『ルギア爆誕』自己主張で共存 より)
と、このように首藤さんは自己存在の主張による共存は幻想と言っている(ただし、「一般常識で言う」と括りがついているのには留意)けれど、わたしは「自分の存在」というものを起点にした方法以外に「共存」はあり得ないのでは?と思ったり。
それに、映画自体が「自分の存在」を強く意識するロケット団の3人が大きな役割を果たし、それが破滅しそうな世界を調和へと引き戻したわけで、そこから考えると、首藤さんもまた「自分の存在」を起点にしたものこそが共存であり、それは決して幻想ではないと捉えているように思うのだけれど…
「私」に基づくもの
ここで起きているのは、わたしは
「本来の自己」から生じるような「自分の存在の主張」(/人間本来の自然な欲求)
と、
後天的に身に付けた「偽りの自己」から生じるような「自分の存在の主張(に似ているが異なるもの)」(/際限がなく、非人間性や破壊性を帯びやすい何か)
を、同じ「自己存在の主張」という言葉として混同して使っていることによる混乱じゃないかなぁと思うのです。*4
もう少しこれらを具体的に言えば、
前者は愛情や好奇心、共感などに基づくもの———友情や知識欲、慈しみや暴力への怒りなど———
で、
後者は絶えざる不安によって駆動するもの———過剰な消費や暴力、支配欲とか権力欲など———
でしょうか。
確かに、後者のようなものに基づく共存は不可能でしょう。
でも、後者のようなものは「自分の存在の主張」における不可分的な影の部分かもしれないけれど、突き詰めるとやっぱり「自分の存在の主張ではなくなってしまったもの」だよね。
「自分の存在」に基づく共存を考える上で、この2つは峻別する必要があると思うのです。
オーキド博士とジラルダン
ここからは映画の話にいきます。
わたしがこの映画においてそれぞれを象徴しているなぁと思うのがオーキド博士とジラルダンで、ざっくり言っちゃえばオーキド博士の「自己存在の主張」は前者で、ジラルダンの「自己存在の主張」は後者だと思うのです。
オーキド博士は、この記事で散々書いて来たけれど、首藤さんのコラムにおいて、おそらくヘリ内でのTVカメラ前での説明シーンを指して「どんなことが起ころうと、自分の役目を果たす生真面目な、言い方を変えれば自分本位な人」とされています。
そしてこれも散々書いて来たことだけれど、わたしは「自分本位な人」には同意しますが、「どんなことが起ころうと、自分の役目を果たす生真面目」という部分には異なる考えを持っています。
だって、「どんなことが起ころうと、自分の役目を果たす生真面目」な人間には知識欲など生まれようがないと思うのです。
「知りたい!」を前にしたら自分の役目など投げ捨ててしまうような、そんな自分の好奇心を裏切れないような「自分本位な人」にしか、真なる意味での知識への探求はなし得ないんじゃないのかなぁ。
「どんなことが起ころうと、自分の役目を果たす生真面目」な人間ができることってせいぜい「既にある知識を積み上げること」くらいであり、でも、「知」というものはそうした記憶力比べなどではなく、「未知なるものの探求」や「自由への欲求」にこそその本質があるものですよね?
こういう姿勢こそが「自己存在の主張」だと思うし、オーキド博士が人々から尊敬されているのもまたこうした姿勢によるのではないのかなぁと思うのです。
そもそも、「どんなことが起ころうと、自分の役目を果たす生真面目」な人など面白みもなく、人々からもあんまり尊敬されないんじゃないのかしら。
ジラルダンじゃん!
ちょっと話が前後するけれど、「どんなことが起ころうと、自分の役目を果たす生真面目」な人って、言い換えれば「周囲の変化に鈍感で、かつ周囲との調和がとれていない人」ですよね。
それ、ジラルダンじゃん!
どんなことが起ころうと、コレクターであることを辞めない。
うん、ジラルダンですよ。
このように、ジラルダンとオーキド博士はこの映画において対照的な存在だと思うのです。
同じように内的な欲求に突き動かされているように見えるけれど起きている結果がまるで逆なのが非常に象徴的で、オーキド博士はそれによって尊敬を集めている(=周囲と調和している)人物なのに対し、ジラルダンは終始孤独で、かつ、世界がどうなろうと心がまるで揺れていないかのような———常に周囲との調和を欠いている———人物と、とても対照的です。
これはやっぱり、スタートの違い———突き動かされている欲求の質が違うこと———が大きいのではないのかな。
このことは、前に示したように「自己存在の主張」というものには種類があり、「本来の自己」から生じた「自己存在の主張」は周囲との調和を生み出しやすく、「偽りの自己」から生じた「自己存在の主張(に似て非なる何か)」は周囲との調和をもたらさず、破壊や破綻へと繋がりやすい、ということを示していると思うんです。
2:「共存不能状態」に陥っているのは誰?
第202回 ロケット団が主役です
では、もう1つの書いておきたいことについて。
こちらの第202回のコラムで、首藤さんはこの映画のテーマである「共存」についてとても鋭い指摘をしていると思うのです。
自分と違うものがあるから、自分が他の存在と違うことが分かると思うのである。
(中略)
自己存在を意識するためには、違う存在も認めなければならない。
それを、僕は「共存」と呼びたかったのである。
(第202回 ロケット団が主役です より)
ただ、わたしはそこに続く部分に少し同意できない部分があるのです。
程度はえらく違うと思うが、住まいと食は確保されているものの、インターネットやTVの情報(知らず知らずに本人が取捨選択してしまい、さらに元の情報自体が悪意のあるなしに関わらず操作されている、生身とはいえない情報)だけが、外との窓口になってしまう、いわゆる「ひきこもり」は、もしかしたら軽度の共存不能状態であると思う時がある。
(同上)
「程度はえらく違うと思うが、〜外との窓口になってしまう」人は「共存不能状態」に陥っている
という部分は本当にその通りだと思うのですが、わたしは“そうなっている”のは「いわゆるひきこもりの人たち」ではなく、その真逆の「ひきこもらない人たち」だと思うのです。
世界との関係を断つ彼らが「共存不能状態」な人たちであるのなら、世界との関係を保っている人たちは「共存可能状態」にあるのだろうか?
それならば、なぜそんな「共存可能状態」にある人たちが構成する世界や社会はこんなにも冷たく、そして『ルギア爆誕』が未だにこんなに強いメッセージを持つのだろう?
この項でのわたしの考えはアルノ・グリューンの影響がとても強いのですが、わたしは社会において「異常」なのは「異常とされる人たち」ではないという思いが強いんです。
本当に「異常」なのは
自分の「異常さ」に目を瞑り「正常」*5のフリを続ける人たち
であり、「異常とされる人たち」とは
どうしてもその「正常」の輪に加わることができず、時には狂気の中に籠もることで自分を守ろうとしている人たち
だと思うんです。
ここの言葉で言えば、
「インターネットやTVの情報だけが、外との窓口になってしま」っている人たち
の側へ、どうしても行けない人たち。
もちろん「ひきこもり」の中にだってそういう人はいるのだろうけれど、“そんな人たち”は「ひきこもり」の人たちではなく「ひきこもらない人たち」の方にこそいっぱいいて、そしてそんな人たちこそが今日も世界のどこかで大小様々な問題を悪化させているじゃないですか。
そうした“茶番”にはどうしても付き合えないよ、それなら緩やかに滅んでいったほうがマシだよ…というのが「ひきこもり」なんじゃないの?
もちろん、これもまたグリューンが指摘していることだけど、彼らのような「試み」は必ず破綻はするんです。
人は現実と関わることでしか生きていけないわけで、そういう意味では確かに「共存不能状態」ではあるのです。
でも、彼らは「ひきこもる」という、ある種の“いのちがけ”な「自己存在の主張」をしているわけじゃないですか。
ゆえに、共存の可能性が多く残っているのは「正常」の側にいる人たちにではなく、むしろ彼らのような人たち、あるいは、彼らの発している“メッセージ”にこそ残っている…なんてわたしは思うのです。
ここはコラムを読む上でちょっと気をつけておいた方がいいポイントだな、と思ったので書いておきました。
繰り返しですが、わたしは首藤さんの意識する「共存」というもののイメージにすごく近いイメージを持っているし、『ルギア爆誕』という映画はその難しいテーマを本当に描き切っていると思うのです。
だからこそ、こうした「差異」について考えることは大事だと思うのです。
そしてこれも繰り返しのことだけれど、ここまでやってはじめて
「この映画を観た」
と言えるのではないのかなぁ、とそう思ったりもするのです。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
久しぶりに10,000字オーバー(15,221字)の記事を書いたような気がします。
この記事は、わたしなりに作品に感じた尊敬や愛情を表現したつもりです。
どうだったかな?
とはいえ読んでくださった方にはどう読んでいただいても結構なのですけれど。
それでは〜!
*1:言葉で説明すると何と面白くないことか
*2:例えば第184、208回などを参照
*3:わたしは学校とかで同年代の人に対して、どちらかというと教えてもらうより教える側に回ることが多かったのだけれど、その際には過程こそが大事だと思うからそこを説明しようとしても答えばかりを急かされることが多く、それが歯痒かった……という個人的経験がこういう考えに繋がっているのかなぁと。まぁ今にして思い返すと余計なお世話だったのかもなのだけれどね
*4:こうした視座はわたしのブログではお馴染みのアリス・ミラー、アルノ・グリューン、エーリック・フロム、安冨歩さんなどを基にしているので、気になる方はそちらをぜひどうぞ。この記事ではややこしくなるので、あくまで映画の描写にのみ絞っていきます。
*5:「正常」と、「 」付きなのには注意。ここでいう「正常」とは、道徳や正義みたいな外部の規範が押し付けてくる「正しさ」、みたいな意味