けいのブログ

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【ポケスペ考察】剣盾編のテーマについて考えてみる

ポケットモンスターSPECIAL』最新章「スカーレット・バイオレット編」が始まる直前の今だからこそ、今一度「ソード・シールド編」について振り返ってみよう、という記事です。

 

はじめに

この記事を書いている時点の情報ですが、8月発売の『コロコロイチバン!』10月号から『ポケットモンスターSPECIAL』の最新章である「スカーレット・バイオレット編」が始まるそうです。

(※最新の情報については各自確認してくださいね)

 

それは同時に「ソード・シールド編(以下、剣盾編とも)」の完結から2ヶ月、完結巻である7巻の発売から約1ヶ月が経過したことも意味しています。

 

なのでこれをいい機会として、今回この記事では剣盾編のテーマについて簡単にですけど改めて考えてみたいなぁと。

山本先生のポストツイートに沿う形をとって考えてみたいと思っています。

 

山本先生まじでサービス精神旺盛。

読者からすれば本当にありがたいことです。

対象年齢じゃない読者なのにいつもいつまでも楽しませてもらってすみません。嬉しいです

 

 

さて、この記事の内容についてですが、先んじてお伝えしておくと相も変わらず抽象的な話ばっかりになっているので「意味わかんねぇな……」となったら

 

こいつは「剣盾編面白かったよ!」と言いたいんだな……

 

と思っていただけると嬉しいです。

 

言いたいのはそれだけなのですから。

 

 

「ソード・シールド編」のテーマとは何だったのか?

①「居場所」

あくまで“山本先生が雑誌に最終話が載った日に『X』 a.k.a. Twitter上で語ったこと*1”ではありますが、山本先生は剣盾編のテーマについてこう語っていました。

わたしはこれはすごく納得できるなぁと思いました。

 

で、わたしがこういう話で思い出すのはいつもここです。

3巻#18の、ウオのんをてもちにしてはしゃぐマナブ君を見てしーちゃんとマグノリア博士が会話するシーン。

自分を大事に扱ってくれて、心を許せる相手の前なら調子に乗りすぎる面も出てくるわね。

 

でも、それによって真価を発揮できたり、いちじるしい能力の成長がみられることもある。

(『ポケットモンスターSPECIAL ソード・シールド 3巻』#18,p133)

何回でも言うんですが、わたしが剣盾編で好きなシーンのベスト10を挙げるとすれば絶対に入ってくるのがこのシーンです。

 

「居場所」を得て、そしてそれに守られている時に人は自分の秘めている力を伸ばすことができる。

それを端的に表現しているのがこのシーンで、その描写の巧みさが……なんて堅苦しい説明をしようと思えばいくらでもできてしまうんだろうけれど、わたしがこのシーン好きなのは多分単純に、しーちゃんとマグノリア博士の視線や言葉をとても優しく感じるからです。

 

つまり、2人の人柄がよく出てるから、でしょうね。

 

 

②「成長」もテーマじゃない?

ちょっと照れ隠しも入れてしまったけど、とはいえマグノリア博士の言う

「居場所」に支えられることによって人はその秘めている力を伸ばすことがある

ということはわたしはわりと信じてます。いや、マジで。

 

で、このことを「居場所」のように端的な言葉として表すとするなら、それは「成長」になると思うんです。

 

 

テーマで言えば「居場所」とは確かに単独でも大きな要素であり、特にビート君の周りは、おそらく山本先生の実体験も加わっていることで、熱量に満ちた描写に溢れています*2

 

でも同時に、物語的には「居場所」はゴールではないと思うんです。

 

「居場所」というものがもたらす何やかんやによって登場人物たちに変化が起きていく、ということに物語のキモがあり、そして剣盾編において特に象徴的だったその変化とは、そーちゃんやビート君、マナブ君が見せたような「成長」だったんじゃないのかな。

 

だから、「居場所」がテーマであれば必然的に含まれてくるテーマという側面を含めつつ、「成長」もまた「居場所」同様に剣盾編の大きなテーマだったのではないのかな、とわたしは思いました。

 

 

③「悪役なき物語」

ラスト。これです。

これも納得できるし、このようにしてはっきりと明言してもらうとすごく目から鱗が落ちるような感じがあります。

こういう話無限に聞いていられます

 

私は剣盾編最終話を読んだ直後にこういう記事を書いたのですが、

keypksp.hatenablog.com

そこで触れたように、最終話において特に大きなインパクトを受けたのはローズ委員長からでした。

そしてそれは、彼の“人間臭さ”に触れたと感じたからです。

 

わたしはざっくりとですが、悪役を定義するならそれは人間性を喪失した人物」だと考えているので、“人間臭い”ローズ委員長は従来の悪役たちとは少し一線を画した人物である、というのはすっと納得できる見方です。

そう考えると、剣盾編は「ポケスペ初の悪役なしの章」という説明もまた頷けるものです。

 

強いて言うならシーソーコンビや王族たちがそれに該当する、というのも、わたしは彼らがこの章の中で最も「人間性を喪失した人物」という像に近いように思うので、彼らがこの章での唯一に近い悪役、というのも納得できることですね。

 

 

amazarashiの引用は結構重要なポイントでは?

ただ、これで話を終えるわけにはいきません。

どこが気になるのかと言うと、この説明のために山本先生がamazarashiの『デスゲーム』を引用している点です。

 

とはいえ、ここはあくまで「わたしの解釈」に依拠しているにすぎないし、ややもすれば揚げ足取りっぽいのだけど、でも、この引用には思うところがあるのです。

 

既にご存知の方は説明するまでもないですが、この曲、確かに「悪意で悪事を働く/悪人の影さえ見えない」とは歌っている曲なのですが、

正義も悪もない 事実は物語よりもくだらない 悪意で悪事を働く 悪人の影さえ見えない

エピローグ間近のこの世界で生き残るなら 一番正しい奴を疑え 自分自身をまず疑え

 

今世紀のデスゲーム 厭世的デスゲーム

冷笑の365日の向こうに何がある? 僕らの首を絞めてるのは おそらく無自覚な奴だ

悲観主義では逃げ出せない 時代のクローズドサークル 悪い奴は誰だ 悪い奴は誰だ

『デスゲーム』 amazarashi/作詞作曲:秋田ひろむ

lyrics|amazarashi official site「APOLOGIES」

より引用

その続きや曲調そのものが示唆しているように、この曲のテーマは

「悪人らしい悪人などいないのに、この(デスゲームみたいな)クソみたいな世界は何なんだ?」

だと思うんです。

 

わたしはこのことが示唆しているように、「悪役なき物語」とは「悪の存在しない物語」ということを意味しないと思うんです。

だから、剣盾編は確かに「悪役」は不在の章かもしれないけど、「悪」が不在の章ではないと思うのです。

 

具体的に言うなら、わたしはブラックナイトにまつわる何やかんやにそうした「悪の動作」がある、と思っています。

ブラックナイトは「悪役」が起こした事件ではなかったのかもしれないけど、「悪」が動作することで引き起こされた事態だった、というのは言ってもいいのではないのかなぁ。

 

 

「悪」とは何ぞや

さて、じゃあ「悪」とはなんぞや、となると思うのだけど、それは一度考えてみた記事があるので気になる方はそちらを読んでいただくのが良いと思うので割愛しますが、

【ポケスペ考察】主人公と「悪なるもの」はどのように関わってきたのか? - けいのブログ

さりとて何も書かないのもアレなので、ここではせっかくなので『デスゲーム』の歌詞の一部分を再度引用することで説明の代わりとしておきます。

僕らの首を絞めてるのは おそらく無自覚な奴だ

『デスゲーム』 amazarashi/作詞作曲:秋田ひろむ

lyrics|amazarashi official site「APOLOGIES」

より引用

首を絞められたら人は苦しいし、最悪◯んでしまうけれど、それに気付かないこと、あるいは自分が他人に対してそうしていることに気付かないこと。

まぁこれは極端な例だけれど、こういう無感覚さ———行為の「意味」と「結果」が途切れてしまっていること———こそが「悪」の根源だとわたしは思うのです*3

 

 

で、これは「悪役」らしい「悪役」がいなくても起こり得ることであり、そもそも日常にもありふれていることですね。

また、俗に言う「善良な人々の起こす悪事」っていうのはこういうタイプの悪事じゃないかな?

 

こういうものが「悪役なき、悪の存在する物語」なのだと思います。

 

ちなみに、さすが我らのポケスペ。実は剣盾編の以前からそういう話を描いています。

そう、第13章「オメガルビーアルファサファイア編」ですね。

keypksp.hatenablog.com

デボン・コーポレーションとフレア団を対比させてそれを描写するなんてアイデア、本当に手加減がありません。

 

その人が「人間臭い人」であろうが「善良な人々」であろうが、そして「悪役」であろうが、自分たちの生きている現実から、あるいは自らの行為から責任を手放してしまうことが「悪」のはじまり

なのだと、そういうテーマがポケスペには(特にXY編&B2W2以降から)章を跨いで連綿とあって、剣盾編もまたそれに連なる章なのだとわたしは思うのです。

 

 

剣盾編は主人公たちを問い直す章だったのでは

さて、ここまでに見て来た①〜③を並べてみると、わたしは改めて考えてみたくなることがあります。

  1. 居場所
  2. 成長
  3. 悪役なき物語

これを包括するような剣盾編の大きなテーマとして、「主人公というものの問い直し」ということがあったのでは?なんてわたしは言いたくなります。

 

……とか言いつつ、これはわたしがずっと言って来たことですね。結論ありきみたいでとてもイマイチだけど、まぁ許してください。

 

 

なので細かいところはもうわざわざ書きませんが、あんまり書いてこなかった、もう少し大きいスパンの話だけ最後に書かせてください。

 

過去の記事や上の項でちらっと書いたけれど、わたしはXY編&B2W2編あたりからポケスペは「悪」や「悪役」というものについて相当考え、そして描写して来たんだと思っているんです。

そして剣盾編に至ると、ついには「悪役」なしでお話を作れてしまうくらいに……というくらいの力の入れようで*4

 

 

どうしてそういう取り組みをしたのか?というのはそれこそ先生方にインタビューでもしないとわからないことなのであんまり深くは考えませんが、それでも一つわたしが思うのは

「悪役」をしっかり描く、というのは

「主人公」をしっかり描くため

だったのではないのかな?ということです。

 

特に、やっぱりXY編とかB2W2編とかが顕著だと思ったり。

ファイツとゲーチスの対峙するシーン*5とか、エックスとフラダリの対照さとか。

 

 

でもここらでそろそろ原点に立ち戻って、その出発点たる主人公たちについて改めて描いてみよう、そしてそれには必ずしも悪役を介する必要はないのでは……というテーマが剣盾編にはうっすらとでもあったのではないのかな、とわたしは想像するのです。

 

主人公(を描くために) → 悪役(を描く)

 

だったものが、

 

主人公(を描くために) → 悪役(を描いたから) → 主人公(を今一度描こう)

 

みたいな流れとなっていったのでは、なんて、活き活きと動き回るそーちゃんやしーちゃん、マナブ君やホップ君、ビート君、マリィちゃんたちを見てるとふと思ったりするのです。

 

 

まとめ

わたしにとって剣盾編はとても久しぶりにリアルタイムで追った章だったので、とても印象に残る章となりました。

でも思い出にするにはまだまだ早いので、折に触れまた色々考えてみたりしたいなぁとも思います。

 

 

以下におまけとして、記事中に収めるには微妙だなぁと思ってオミットした部分を載っけておきます。

興味あれば覗いてみてください。

 

 

ここまでお読みいただきありがとうございました!

それでは〜!

 

 

 

 

おまけ

「成長」するということについて

この記事では「成長」という言葉を特に注釈なく使いましたが、この言葉をどう考えるのかは結構重要なポイントだとも思っています。

「成長」という言葉はそこかしこで語られるけれど、明確に答えるのは実はかなり難しい言葉ですもんね。

 

とはいえあまりうまくまとまらなかったので簡単にだけにしますが、わたしは「成長」とは

「結果」ではなく「態度」のこと

であり、それはつまり

「立派になること」ではなく「現実に対応しようとすること」である

(=そうした態度を取る勇気や元気が湧いてくることが「成長」である)

というのが現時点でのわたしの考え方です。

 

これに関連することとして、剣盾編にはマスタード師匠の問答によって

「ある行為がどのような結果をもたらすのかは誰にもわからない」

「世界は複雑にできているから、物事にはいろいろな力が働いているのかも?」

といった命題群が提示されていることは見逃せない点です。

ワシちゃん、ジムリーダーもチャンピオンも経験して道場まで持ってるけど、練習や修行や鍛錬だけでこうなれたとは思わない。

 

ワシちゃんと同じことしたって、だれもがワシちゃんみたいになれるわけじゃない。

(『ポケットモンスターSPECIAL ソード・シールド 6巻』#35,p98)

 

縁とか運とか、なんか人知を超えたものに導かれたのか?

 

なんてチラーッと思うこともあるよ。

(『ポケットモンスターSPECIAL ソード・シールド 6巻』#35,p98)

 

ワシちゃんが知ってる「自分は1人でなんでもできるし、やってきた!」って人たち、

 

たいがい、助けになった人がいたことに気づいてなかったり、軽くみている人たちだったね。

(『ポケットモンスターSPECIAL ソード・シールド 6巻』#36,p116)

こういうことを踏まえると、現実に対応しようとした(/できた)「結果として」立派になることはあれど、「立派になったこと」をして「成長」を定義することはできないと思うのです。

ゆえに、「成長」とは結果ではなく態度の問題の話である、とわたしは捉えたいなぁと思うのです。

 

 

だから、マナブ君で言えば彼がナミダくんをホップ君に託したのは間違いなく「成長」だと思うし、しかもそれをやってのけたのは冒険のはじまりでシュミレーター相手に竦んで何もできないでいたマナブ君だった、というのはすごくよくできているなぁと思います。

余談ですが、公式による非公式設定、ポケスペ脳内主題歌によると、#2のマナブ君の曲はそのタイトルが『何もしないお前に何がわかる 何もしないお前の何が変わる』(SLANG)ですし。

www.youtube.com

象徴的ですね〜。

 

 

ただ、ここに関して読者としての欲を言えば、最終決戦におけるマナブ君のその「成長」をしーちゃんかそーちゃんが一言だけでもいいから認めてあげたり、言及するセリフが作中で聞けたらもっと嬉しかったなぁ、という気持ちがあるのは事実です。

いや、彼らはもうそういう“他人行儀な”ことはわざわざ言い合ったりする必要のない関係、ということなのかもだけど……、でも、ね。

 

 

 

 

と、いろいろ言いましたが、最終決戦の描写はわたしはすごく納得がいっています。

 

連載時に書いた記事では「ショックを受けた」とかとも書いたけど、やっぱり良い意味ですごく予想も期待も裏切られた展開だったし、今では本当に“これしかない”展開だったなぁと感じてます。

 

最後のそーちゃん、しーちゃん、ホップ君の会話もすごく良かったですし。

あれでこそだよね。

 

 

こういうものを見せてくれるから、わたしはやっぱりいつまでもポケスペが好きなのだなぁ、と思います。

 

 

 

 

おまけは以上です!

それでは次回の記事でまたお会いいたしましょう〜!

 

 

 

 

脚注

*1:時間が経ったら別のお話が出てくるかもですし

*2:ちなみに内容も傾向も全く違うけれど、わたしはXY編のクセロシキとの決戦のシーンにそうした“滲み出る作者の情念”のようなものを感じるのだけれど、気のせい?

*3:ちょっと真面目な話を書いておくと、本で言えば『服従の心理』(S・ミルグラムや『A3』森達也あたりを読むと参考になるし、こういう現象は一部の“異常な”人間が起こす事態などではなく、わりとありふれた事態であることがわかる気がします

*4:もしかしたらここには監修などといった外部の都合、というものもあったのかもしれないけれど。とはいえこれは下衆の勘ぐりというものであり、作品が面白ければどうでも良いことです

*5:ここ、初期案だとなかったという驚きの話!が

山本サトシ on Twitter: "実は最初のコンテでは社長に言い負かされて終わりだったんですが、ゲーチスが小物に見えるのでそれは避けてほしいという版元さんの要望があり、ひねくり出したファイツのセリフであり、ポケモンたちの場面だったのです。" / X