けいのブログ

Key's Bricolage-log

【ポケスペ考察】映画とBW・B2W2編

ポケウッド」の話…ではないんですね、これが。

 

でも『B2W2』のポケウッド、選択肢次第ですごいふざけたストーリー作れたりバトルもぶっ飛んだ設定ばかりで好きだったなぁ。

リメイクされたらどうなるんだろうね?

 

 

はじめに

前回の記事でポケットモンスターSPECIAL(以下、ポケスペきっかけに観た映画の話を少し書いたけれど、わたしにとってそういう映画は他にもあったので今回はそれについて。

それは54巻の「作者のことば」で、まんが担当である山本先生がBW・B2W2編の終幕の各エピソードを描くにあたって「暗闇を照らす一条の光のように頼り(54巻、作者のことば)」にしたとしている作品群のうち、

『FAKE』

および

『A』『A2』(すべて森達也監督)

 

あと、これは映画ではなく本だけれど、言及されていたので

『A3』森達也

も。

 

そして、同じく言及のあったテレビ放送のドキュメンタリー

『人殺しの息子と呼ばれて』(フジテレビ)

も観ました。

 

 

あとは山本先生の言及にはないけれど、それらを補完するための本をいくつか。

 

 

 

 

この記事は、それらを観た感想から、なぜこれらの作品が言及されているのかについて考えてみようとするものです。

あるいは、それらの作品へのガイド的なものとして。

 

 

結論からいうと、これらの作品群は特にファイツの描写に関わっているものであり、ひいてはプラズマ団イッシュ地方の描写にも影響を与えているのではないのかな、と思いました。

実は他にも言及されている作品はあるのだけれど、それはわたしはまだ観れていないのと、どちらかというとそれはどうもラクツに関わりそうなものであり、今回の記事はあくまでファイツが中心になりそうなので割愛しています。

 

それではいってみよ〜。

 

 

作品について

まず、これらの作品たちがどんな作品なのかご存知ない方のために、簡単にだけ説明。

『FAKE』

FAKE (2016年の映画) - Wikipedia

『FAKE』は、2010年代の日本が舞台のドキュメンタリー。

 

かつて「現代のベートーベン」とまで言われた作曲家に実はゴーストライターがいたことが明らかになり、世間の称賛は一転して苛烈なバッシングへと変わっていく。

だがその報道される内容のどこまでが真実でどこからが嘘なのかはわからないことが映像を通して示唆されていく…

 

『A』『A2』および『A3』

A (映画) - Wikipedia

A2 (映画) - Wikipedia

『A』『A2』は1990年代末〜2000年代初頭の、同じく日本が舞台のドキュメンタリー。

 

当時、いくつもの大事件を引き起こし日本を震撼させた宗教団体を扱った作品。

この作品の特筆すべき部分は、映像が信者や教団に近い場所から撮られていること。

 

ややもすればこのことは「教団寄り」とも捉えられ、それにより批判もかなりあったよう。

だけど後述の『A3』を読んだり、わたしが作品を観て感じたことは、この作品はそのような「どっち寄り」のような視点に立ったものではなく*1、むしろそうした安易な「切り分け方そのもの」を問題に設定しているかのような作品。

 

 

それでも起こした事件が事件だけにフラットに観るのは中々難しいだろうし、ましてや事件から時間の経った今となっては知らない人も多い(わたしもリアルタイムの記憶などあるはずがない)、あるいは、記憶はあっても風化しリアリティを持つこと自体が困難なのも事実ではあろうけれど、

そうした“事実”も含めて様々な問題を提起あるいは想起させうる力を持った作品でもあるとも感じたり。

 

 

ちなみにこのリアリティの問題に際しては、わたしはとりあえずアンダーグラウンド』『約束された場所で』村上春樹という著作を読むことで一旦どうにかしました。

そこに書かれていることは基本的にあくまで著者の視点でありインタビュイーたちの視点ではあるけれど、当時の雰囲気をなんとなく感じるのには十分かなと思いました。

 

--------------------

2022年10月20日:追記

追加で『麻原彰晃の誕生』高山文彦文藝春秋『裁かれる教祖』共同通信社社会部編,共同通信社の2冊も読みました。

どちらの本も今読んでも…というか、今読む本としてもおすすめ。

--------------------

 

 

 

 

『A3』は映画の続編的作品であり、教団の教祖の裁判のあまりの「異常さ」をきっかけに、様々な取材を重ね新しい視点や問題を浮かび上がらせていく著作。

本文だけで552pというなかなかに狂ったボリューム。

 

雑誌連載がベースになっており、現在進行形で変化していく著者の思考の過程や状況の変化が注目ポイントであると同時に、リアルタイムを知らない読者にとっては当時を知る貴重な手がかりにもなり得る。

 

『人殺しの息子と呼ばれて』

『人殺しの息子と呼ばれて』はテレビ放送されたドキュメンタリー。

 

数々の作品のモチーフとしてもよく扱われているある陰惨な事件の犯人の、その子どもの人生についてインタビューを中心にまとめた作品。

 

…だけど正直、わたしこの番組に関しては1回観た感じだと、わたしがテレビというものに対して偏見を持っているから(?)なのか

「インタビュイー(被写体の人のことね)の方に対してそりゃないだろう」

と思ってしまうような演出や表現を感じる瞬間がままあって*2、なのでうまく整理できそうにないので今回この作品について言及するのはやめておきます。

 

 

作品の歩き方

冒頭にも書いたように、これらの作品を観ることでBW・B2W2編の主人公の一人であるファイツへの理解がより深まる…かも。

 

とはいえ映画はどれも2時間越え。

おまけにテーマもテーマなので観るのも大変です。

 

というわけで、おすすめの観る順番。

  • 【最初に観るなら】
    • 『FAKE』
  • 【次の一歩はこれ】
    • 『A』
    • 『A2』


  • 【まだ元気があるなら】
    • 『A3』
      • (そこで紹介されている著作など)
    • (『人殺しの息子と呼ばれて』)

 

 

ある作品から別の作品へと足を伸ばしていく、というのは創作物に対する一つの触れ方。

この記事がその参考、あるいはきっかけにでもなれば幸いです。

 

 

 

 

「解題」…だなんてとてもいえないけれど

ここからはなぜBW・B2W2編に対してこれらの作品が言及されているのか、についての考察。

書くまでもないことだけれど、いつも言っているようにこれは別に決して「正しい解釈」なんてものではないですよ〜。

 

 

『A』『A2』との関連性?

作品の名前を見てまず真っ先に思いつくのは、プラズマ団およびファイツと『A』『A2』との関連性でしょう。

 

でもわたしが一通り見て感じたのは

(当然そうした要素もあるだろうけれど)それだけではないのでは」

という思いでした。

 

 

そう思った理由の一つに、一番に言及されているのが『FAKE』であること。

「カルト的なもの」が作品群とBW・B2W2編との共通項とした場合、『FAKE』が一番最初に挙げられていること、何より言及があること自体が少し不思議*3です。

 

とはいえこれは単に同じ監督の作品を「新しい作品から順に書いた」だけなのかもしれないけれど、もしそうだとしてもやはり『FAKE』は『A』『A2』ほどBW・B2W2編との関連性が明快でないのがやはり気になります。

 

 

正直、ここを考える上では「頭で考えること」なんかよりも「作品を観た感想そのもの」が手がかりになると思うので、そこから歩を進めてみましょう。

 

 

『FAKE』が一番怖かった

わたしが『FAKE』を観てもっとも印象的であり、今回の考察において手がかりになると思ったことは

「この作品が一番怖い」

でした。

 

 

特に序盤、メインの被写体である作曲家がテレビで年末の番組を部屋で見ているところ。

 

この番組は「今年メディアを賑わせた人を特集する」というテーマであり、当初この作曲家にも出演依頼がありました。

依頼の場では、そのテレビ番組の製作陣から「出演する人全員のこれからの活躍に繋がるように」面白おかしく取り上げるような番組にはしない、みたいな説明があったのに、できあがったその番組はどうみてもそうはなってはいませんでした。

 

こわ〜〜〜〜〜。

 

 

森達也監督はその後のシーンで、作曲家に対し

「もし出演していたら(作曲家は何らかの理由あるいは事情で出演していなかったのです)もう少し違う内容の番組になっていたかもしれない」

と言及している*4のだけれど、その番組に出演していた「彼のゴーストライターだった人」の扱われ方を見ていたら、とてもそうは思えないよねぇ。

 

 

 

 

とはいえこんな「言っていることとやっていることが違う」なんてことは(規模はともかくとしても)日常茶飯事なこと。

それでもこの場面が「怖い」のは、この光景が一見すると「異常」とは全然見えないところ。

 

『A』『A2』などにはある意味「なんだかんだ言ってもこれは「あちら側」の話だ」と線を引けるわけで、それが感覚の上において一種のバリアとして機能もするわけだけれど、『FAKE』に関してはそれが難しかったり。

 

テレビ番組の制作陣の彼らは姿も振る舞いも基本的に「ちゃんとした人たち」のものであって、いうところの「おかしい人たち」のものではないわけです。

 

 

「おかしい人たち」が「おかしいこと」をやっている

ならまだ理解できそうだけれど、

「ちゃんとした人たち」が「おかしいこと」をやっている

のは頭が追いつかないよ〜。

 

「軽佻浮薄な人間たちが馬鹿騒ぎする番組を作った」

なら「まぁそんなもんか」だろうけれど、

「立派に見える人たちが(しかも、きっと頑張って)作ったのがこれか…」

は、いざ映像として見せつけられるとこれはなかなかに言葉にならないショックがあったり。

 

 

わたしはテレビなんか普段ほとんど見ないし、だからきっと信用なんかしていない…はずなんだけれどなぁ。

 

 

 

 

ちなみに、これに近いことを山本先生は53巻で言っているのです。

山本サトシ

初めてポケモン・ホワイトをプレイした時、街の人に話しかけると、みながみな「自分たちはポケモンとうまくやっている」と自分に言い聞かせているように見えて、何か同調圧力のようで、プラズマ団より一般の人が怖いと思ったものです。ファイツを描くとき、必ずそれを思い出すようにしています。

(53巻、作者のことば)

この内容、よく載せられたよね…と読むたび毎回思う。

 

山本先生はここで感じたものを「同調圧力(のよう)」と言っているけれど、これをわたしなりに解釈するなら、

「ちゃんとしている(はずの)人」がどこかおかしく思えるのに、でもそのモヤモヤを表現できないことの怖さ

かなぁ、と*5

 

 

 

『FAKE』に対してわたしが感じた怖さもまさにこれで、それは前述したように、あのシーンの中でテレビの製作陣が「怖い」と思ったのは

彼らが「おかしいこと」をしているから

ではなく、

彼らは「ちゃんとしている」ように見えるのに、していることはどうにも「おかしいこと」だから

なのです。

 

このズレが、理屈ではどうにもうまく説明できないけれど怖かった。

 

 

 

 

ここまでに書いてきたことはあくまで「わたしの感じたこと」に過ぎないけれど、でもこれこそが『FAKE』が言及されている理由だとわたしは思うのです。

『FAKE』はそれを「映像として」まざまざと見せつけてくる作品であり、「ファイツの感覚に想像を巡らせてみたい」という(おそらくかなり一般的ではない)動機で観ても一見の価値のある作品だと思いました。

 

 

描き下ろしのロットのセリフについて

だから、わたしはファイツに対する重要度でいえば、テーマの類似性を直接に感じさせる『A』『A2』よりも『FAKE』を推したいかなぁ、と。

正直、ポケスペを考える上では『A』や『A2』まで行かなくても『FAKE』までで十分だとも思う。

 

でも、『A』『A2』および『A3』にもBW・B2W2編と関連するテーマはあると感じたので、それについても少し言及してみたいと思います。

映画はともに2時間越え、書籍は500p越え。関連して読んだ本も合わせると…それで何も言及しなくては労力が報われません…うそうそ!

 

一応この話がどこに向かうのかを最初に言っておくと、55巻の描き下ろしの部分の、七賢人・ロットの

ファイツ。これからもポケモンを虐げる人間と数多出会うことがあるだろう。

 

だが、怒りや憎しみから結論を急ぐな。

楽な近道には陥穽*6が待ち受けていると心し、

われらの轍を踏まぬよう生きてほしい。

(55巻、p103)

この発言を改めて考えてみることができるかな?というところに行きます。

 

と、このように、ここで書いていることはどちらかというとファイツというよりは「プラズマ団なるもの」に関連することであり、そして、ちょ〜〜〜〜〜っと抽象的な話が続くのでそれはご容赦あれ。

 

 

『A』『A2』を紐解くキーワード

『A』で印象的だったものの一つは信者の人たちの姿。

 

メディアを通して広がった(とされる)人の姿をした化け物、みたいなイメージは何処へやら、どう見ても彼らは基本的には「普通の人」です。

それでも時折違和感を感じてしまう部分があり、それは何かと言うと、彼らの「普通の人たち」よりも少し真面目なところ、そしてそれゆえなのか「矛盾」みたいなものを嫌う、あるいは極端に克服しようとしているところ。

 

例えばそれは信者・元信者たちへのインタビュー集である『約束された場所で』という作品を読んでも、同様に感じるところでした。

 

 

 

 

その違和感を言葉にするなら、おそらく「飛躍」が一番しっくりくる。

『A3』で著者である森達也監督が「飛躍」という言葉を使っている部分(p206〜207)があるのだけれど、それがピンと来るのです。

 

 

この世の中には矛盾や問題がある、それはそう。

そこに悩んだり、どうにかしたいと願う、それもそう。

 

ここまでは言うなれば「普通」です。

だから、彼らも多くの場面で「普通」に見えるんだと思うんです。

 

 

けれど、彼らがそこから「どうにかしようとする」ために行おうとするその「方法」について、わたしには映像を実際に見ても、本を読んでもどうにもうまく理解できなかったのです。

で、その「理解できなさ」を言葉にするならやっぱり「飛躍」かなぁ、と。

 

 

もちろん、起こした事件について考える際には「飛躍」だけでなくまた違う視点を持たないといけないと思ったのだけれど、それは今回は割愛。

後で脚注において少しだけ触れているけれど、それは『A3』やいわゆる「ミルグラム実験」とかが一つの手がかりになるかなぁ、と思います。

 

 

 

 

この「飛躍」と、その前提たる「矛盾」というこの二つこそが『A』『A2』および『A3』、そしてプラズマ団を考える上で重要なキーワードだとわたしは映画を観て思ったのです。

そう、これでポケスペの話に戻れるのだけれど、BW・B2W2編の、特に「白いプラズマ団員」の造形にはこういう要素が採り入れられている、あるいは、それを手がかりに描かれている、のではないのかなぁ。

 

ちなみに、プラズマ団において「飛躍」とは

ポケモンを解放するために行なっているとされる(けれど、側から見るとそうとは思えなかったりもする)様々な行い」

で、「矛盾」とは

「世の中にはポケモンを傷つける人間がいる」

ですね。

 

 

プラズマ団なるものと飛躍

「白いプラズマ団員」の一人であるファイツの母親の描写がそれを端的に表しているものの一つだと思うのだけれど、彼女は「元育て屋」であり、そこで傷ついたポケモンを何度も見た経験からプラズマ団へと加わったのだとファイツは語っています(53巻、p155)

 

でもこれも、簡単に言ってしまうならやはり「飛躍」です。

 

 

「今の社会は多くのポケモンが傷付けられている」

ポケモンが傷付かずに済む社会を作る」

プラズマ団の活動に加わる」

には、冷静に考えると、それぞれの間には少しの距離がありますもんね。

 

 

この「飛躍」に対し、わたしはスイスの精神分析医であるアルノ・グリューンが、彼がよく受けるという「他者とよりよく生きる上で私たちは何をすべきか」という質問に対し

 その上で、私たちが「何をすべきか」という問いそのものが、「思考や感情に対する私たちの文化による束縛」であることを、明確にしなければならない。私たちは、すでに人生の早い時期に、「自分で考えること」を学ぶのではなく、「私たちが見つけようと望むものに、私たちを導く規則」を探すように学ばされている。悲劇的なのは、あらかじめ決められた思考パターンを無自覚に信頼することであり、自分で考えることを停止することである。

(『私は戦争のない世界を望む』、p156)

と書いているのを思い出すのです。

 

グリューンはわたしたちの「問題の解決を望む“感情”」の中には「内側から自然と湧いてくるもの」の他にも

「文化(や言語の構造)によって習得させられた、ある方向へと無意識的に向かいやすくなる思考のクセ」

というものがある、と指摘しており、これを要約するなら

わたしたちの身につけているものの中には人を暗に「飛躍しやすい方向」へと誘導するものがある

となるのでしょうか。

 

 

このことは同時に、こうした「飛躍」は「おかしい人たち」特有の現象ではなさそうなことを示唆しています。

「普通」の側のわたしたちも、意識的/無意識的において「◯◯すべきである」「◯◯しなくてはいけない」というような思考のクセはしっかりと身に付けていますからね。

 

 

親は大事にしなくてはならない。

人に嫌われないようにしなくてはいけない。

良い学校に入って良い会社に入らないといけない。

いっぱい勉強して立派な人にならないといけない。

社会や共同体、あるいは国家の役に立つ人間にならないといけない。

人に迷惑をかけず自立した人間にならないといけない。

正義は公平は実現されるべきである。

悪い奴やずるい奴らには罰が下るべきである。

推しへの愛は大いに表現すべきである。

自己肯定感は高めるべきである。

自分の嫌いなところも愛するべきである。

 

…ほ〜ら、1個ぐらいは当てはまりそうでしょ。

わたし?訊かないでください。

 

 

もちろん、それでも大抵の人が行うのはあのような「飛躍」ではなく、せいぜい「跳躍」ぐらいのものでしょう。

 

けれど、わたしたちもまた“ジャンプ”自体はしているはずなのです。

それが時に「飛躍」へと至る、のではないのかな。

 

 

プラズマ団と市井の人

わたしの読んだこの事件にまつわる幾つかの本では、揃って(事件がまだ近かったこともありややメランコリックに?)「あちら」と「こちら」の境界線は決して明確ではない、と指摘していました。

それはポケスペにおけるプラズマ団の描写にも関連する部分があって、

山本サトシ

プラズマ団の団員をデザインするとき、なるべく市井の人っぽく描くようにしています。

(後略)

(47巻、作者のことば)

という言及があり、BW・B2W2編においても「あちら」と「こちら」の境界線は決して明確なものとは意識されていないことが窺えます。

この続きの部分で言及されているのは冷凍コンテナのエピソードに出てきた夫婦らしき団員たちですが、彼らは確かにこの場面では「おかしい人」たちだけど、その後のファイツの回想に出てきた際(53巻、p94〜95)にはどう見ても「普通の人」あるいは「良い人」ですもんね。

 

 

で、話は再び抽象的な部分に移るけれど、これらのことを先述の内容を踏まえた上で考えるとそれは「わたしたちも常に「あちら側」に回る可能性がある」…みたいな使い古された脅し文句として読むと気が滅入るので、

「あちら」も「こちら」も似た力学で動いている

と考えるのがわたし的には気楽でいいかなぁ。

 

ある「化け物」の存在を前提にしてしまうと確かに物事はわかりやすくはなるけれど、今度はその「化け物」が必要以上に怖くなってしまうもんね。

あるいは、幽霊の正体見たり枯れ尾花、です。

 

 

まぁ、そういう意味では確かに「わたしたちも常に「あちら」側に回る可能性がある」のかもしれないけれど、

でもそれはやはり「あちら」=「異常」/「こちら」=「正常」みたいな切り分け方に立っているのであり、わたしの観た映画や本から抱いた感想とその切り分け方は今となってはもううまく重なりません。

 

 

 

 

そして、これはいささか頭でっかちな考え方にはなるけれど、わたしたちの生きている社会では「◯◯すべきである」「◯◯しなくてはいけない」という思考パターンはある種不問の前提なわけです。

 

あの事件はそこを突き崩しかねない(このような思考パターンが存在すること、そして、それは大きな危険を孕み得ること)事件だったわけで、社会に巻き起こった大きなバッシングは事件そのものへの怒りも当然あっただろうし、それはある面においては自然なことだろうけれど、同時に

これは「“マインド・コントロールされるような”おかしいあいつら」だけの問題で、

「正常なわたしたち」とは関係のない話である(/あって欲しい)

という願望がそこにはあったような気が、特に本を読んだ感じからはしたのです。

 

 

 

 

話が逸れたので、一度まとめましょう。

「解決すべき矛盾(/問題)がある」

ことと

「矛盾(/問題)を解決するために◯◯する/すべきである」

との間には、やはり少しの(あるいは、絶望的なほどに)距離があるのでしょう。

 

そしてこのことは、なるべくみんな見ないようにしているわけです。

 

 

問題の本質なるものがあるとすれば、それは「矛盾」があることでも「飛躍」を行なっていることでもなく(もちろんそれらにも問題はある)それらを「見ないこと/ないこと」にしているという部分ではないのかなぁ。

プラズマ団の人たちで言えば団員の人たちが「ゲーチスの言うこと」に葛藤する描写はほぼ皆無ですし、何よりそれを「これはポケモンの解放のためだから」と目をつぶってしまっているところ、実のところこれが一番あかんかったんとちゃうん?(唐突なニセコガネ弁)

 

で、フィクション・ノンフィクション問わず存在する様々な事例が示すように、そこにいくつかの条件が重なると、例え悪意などがどこにも存在しなかったとしても暴走が始まる、と。*7

 

 

 

 

上記のことは「飛躍」の話だけれど、「矛盾」の方にも少しだけ目を向けてみましょう。

 

山本先生の53巻における見立てが正しければ、ポケスペにおけるイッシュ地方には「矛盾」を「見ないこと/ないこと」にする土壌があるとも言えるわけです。

もちろん、それは事実というよりは「ある種の人たちがそのように感じてしまう」ものに過ぎないものかもしれないけれど、でも問題はこの真偽よりも「そのように感じてしまう」何かがイッシュ地方にはあったであろうことと、そして、そう感じる人たちに対する「受け皿」がプラズマ団しかなかったであろうこと*8でしょう。

 

例えば、イッシュ地方にもガラル地方のスパイクタウンみたいに「世の中にどうにもなじめない人たち」が集まれるような場所が他にもいくつかあったらどうだったんだろう?

少しは違ったんだろうか?

 

 

話を少し戻して、プラズマ団という「受け皿」とは“神秘(宗教?)的な”包摂の力を持っている場ではなく、確かに「矛盾」には目を向けるのだけれど「飛躍」の方からは目を逸らさせてしまうものであり、おまけにそこにはゲーチスまで載っかっていたものだった…みたいな。

 

 

もちろん、Nの変化や後に「白いプラズマ団」が出現したこと、ファイツの才能の開花が証明しているように、プラズマ団にある種の“神秘的な”包摂の力が備わっていたのもまた事実でしょう。

けれど少なくともBW編終了くらいまでは「目を逸らさせる」力の方が強かった、のだと思うのです。

 

 

ちなみに、注釈なく「“神秘(宗教)的な”包摂の力」という言葉を作った上に使っちゃったけれど、これは「矛盾を前提としつつも、そこからの飛躍と現実とをなんとか擦り合わせる力」みたいな意味で使っています。

…わたし宗教に関しては全然知識ないので、もしかしたらすごくトンチンカンなことを言っているのかもしれないけれど。

 

 

 

 

プラズマ団なるもの(/ゲーチスなるもの)」が突いた“人間の間隙”というものとは、こうしたものだったのでは、と映画を観てからは思うようになったのです。

世の中には矛盾があること、でもそれを「あたかもないかのように」振る舞うよう押し付ける力があること、わたしたちが暗黙の前提とする思考の方法にはクセがあること、人間が時に神秘(宗教)的な力を必要とすること、社会には往々にしてそれを受け止める場所がないこと、などなど。

 

プラズマ団の内情はさほど描写が多くないので(彼らは物語の主役ではないのである意味当たり前だ)このことが本当に正しいのかははっきりとは確かめることはできないけれど。

 

 

ロットの反省

以上のことを踏まえ、改めて七賢人・ロットのセリフを見てみましょう。

ファイツ。これからもポケモンを虐げる人間と数多出会うことがあるだろう。

 

だが、怒りや憎しみから結論を急ぐな。

楽な近道には陥穽が待ち受けていると心し、

われらの轍を踏まぬよう生きてほしい。

(55巻、p103)

ここで言う「楽な近道には陥穽が待ち受けている」というのは、第一には

「安易な答え」なるものにすがってはいけない

という意味でしょう。

 

 

でも、見方によっては「「安易な答え」なるものにすがってはいけない」というのは

「安易な答え」というものを前提にしている時点で

「「安易な答え」なるものにすがる」と同根の発想

とも言えるわけです。

こういうのはコインの表と裏、と言うのでしょうか。

 

だから、ヒュウの部屋の写真を見て人知れず謝罪の言葉を口にできる(54巻、p82)ような彼の発した言葉として考えるなら、おそらくだけどこうした意味だけに留まるものではないという気がしてきます。

少なくとも、「プラズマ団なるもの」に対するオルタナティブ*9としては心もとないでしょう。

 

 

 

 

だから、そこからわたしが思うのは、これは「飛躍」に対する言及でもあるのではということです。

…はい、やっと繋がりました〜。

 

そして、それはやはり「飛躍をするな」という警句(/安易な答え)ではなく、世の中の出来事と人間の行いの間には常に「矛盾」と「飛躍」があり、そこを見落とすなという意味での警句だと思うのです。

 

 

 

 

プラズマ団の事件を経験した後のイッシュ地方であっても、きっとポケモンを傷つける人間は決していなくなることはない。

 

でも“彼”がそこに至るまでにはおそらく耐え難い矛盾を何度も経験し、そしてその結果“彼”は「傷つける」という飛躍を果たしたはず。

物事には常にこうした複雑な過程があって、そして同時に、この「矛盾」を全てなくしてしまうような「飛躍」は存在しなければ、それに私たちを「駆り立てるもの」も決して自明のものとは限らない。

 

そしてそれはゲーチスに関してもしかりで、本人が予言するように(55巻、p92)再びイッシュ地方の人々が「ゲーチスなるもの」を希求する時が来るかもしれない。*10

でも、そこにはやはりいくつもの矛盾と飛躍があるはずで、そこを見失ってしまうと世の中はたちまち理不尽なものに見えてしまうようになり、かくして人は絶望に囚われてしまう。

 

このことを忘れてはいけないよ…みたいな。

 

 

…ブログに書いている以上言葉で書くより他はないけれど、でも言葉にしてしまうとぜんっぜんに駄目だよねぇ。

自分で書いといてなんだけど、もう説教臭くてかなわんわ。(またも唐突なニセコガネ弁)

 

やっぱ何かを表現したり感じたりするには漫画です。

 

 

 

 

気を取り直して、これはかつてはプラズマ団の悪事に手を染めたものの、それ以降はプラズマ団としての反省や責任に基づいた行動を取ったロットという人物ならではのセリフだと思うし、そう考えると含蓄はあれどなかなかに重たい言葉です。

また、「ブラック・ホワイト」=「白と黒」という、ややもすれば「二者択一」という概念(?)を含みかねない名前を冠する章の最後の場面にこのセリフが配置されているのも注目すべき点でしょう。

 

 

 

 

多くの人は、世の中に矛盾があっても見なかったことにしたり、あるいは「まぁそんなもんか」で生きている…それがいいのかどうかはさておいて。

でも、中にはその矛盾を鋭く感知し反応する人たちというのがいて、それは「特異な能力」とでも呼ぶべきものであり、それを持つ人はポケスペで言えばワタル、アカギ、N様、ファイツ、「白いプラズマ団」に所属する人たち、エックス、グズマ様、マナブ、ローズ委員長…ちょっと探しただけでもいくらでも見つかるな。

 

でも、この「特異な能力」と「◯◯すべきである」みたいな思考のクセ(=「飛躍」)は時に食い合わせが悪くなりやすくて*11、それはワタル・BW終盤までのN様・ローズ委員長とかを見れば一目瞭然ですね。

 

繰り返しになるけれど、ロットの警句とはこの「矛盾」と「飛躍」についても言っているのでは、とわたしは思うのです。

 

 

 

 

“現実”と現実と「夢」

現実の拒絶、あるいは同化

今回の記事、わたしとしてはなるべく真面目になり過ぎないように書いたつもりだけれど、おそらくそうはなっていないでしょう。

なのでもうどうせなら最後までそれで行こうと思うのだけれど、言うなれば今回の話は「矛盾」とどう向き合うか、みたいな話なわけです。

 

『A』『A2』などで語られるようなことは、すごくざっくりと言ってしまえばそれを「克服しようとした物語」であり、そしてその「誤りの物語」でもあると思うのです。

 

 

 

 

でもこの「克服の物語」は彼ら特有の話ではなくて、「正常」とされる「こちら側」もその鏡写し---この表現はあまり好きではないけれど---となっているとわたしは感じたのです。

ただし、彼らの「克服の物語」が「矛盾をないことにしている」“現実”に対する拒絶の色彩を帯びていることとは対照的に、

こちら側の「克服の物語」とはその「矛盾をないことにしている」“現実”と完全に同化してしまうことによって

であり、その結果は当然の帰結として、彼らと同様に現実を喪失していくわけですが。

 

 

それを象徴していると思うのが『A』で何度か出てくるマスメディアの人たちの取材シーン。

彼らは3秒でバレそうな嘘を平気でついたり、臆面もなく矛盾のある言葉を話すのだけれど、わたしはその場面を見ると何度も「ん?」と思ってしまったのです。

 

彼らは矛盾のある発言をしても…というか矛盾を堂々と晒しつつも、さも矛盾がないかのように振る舞う。

まだ「騙してやろう」というのであるのなら「嘘をつくこと」とか「矛盾を混ぜて話す」のは理解はできるのだけれど…

 

矛盾があっても堂々としている。

周りも気にするそぶりはない。

 

…どういうこと?

 

 

もちろんこれは処世術とか、取材のテクニックとか、あるいは保身なのかもしれない。

でもそれならもうちょっと葛藤があってもよさそうなものの、それをどうにもわたしは感じ取ることができなかった。

 

そしてありありと思い浮かぶのが、きっと「仕事」や「立場」から離れると彼らはとても人間臭いだろうし、その「嘘」について聞けば「私だって本当はあんなことはやりたくなかった」と答えるであろうこと。

 

 

…じゃあ映像に映る「あれ」は何なのだろうか?

人間性や現実の喪失」というものが「人間の本性」みたいなものに根ざしていない(=悪い出来事が起きたのは「悪い人間がいたから」ではない)のなら、それはどこから来たんだろう?

 

 

『FAKE』のあのテレビ番組の馬鹿騒ぎも思えばその「人間が“現実”と完全に同化してしまっている姿」のようであり、わたしにはそれが怖かったのかもしれず、また、山本先生が「ファイツを描くときに思い出していること(/ファイツが持っているであろう、漠然とした恐怖)」とはそのことなのかもしれません。

 

 

夢を見ることは生きることである

…暗い話ばっかりだから、最後は明るい話にしましょうか。

できるかな?

 

記事の真ん中あたりで触れたグリューンは、その本の冒頭で「夢を見ることは生きることである(p12)という命題を立てています。

これ、わたしはなかなか示唆的な言葉だと思うのです。

 

 

…え?ロマンチックすぎるし頭お花畑だって?

ロマンチックなのは事実だけれど、後者についてはちょっと待ってね。

 「夢を見るのをやめなさい!」とは、大人が自分と子どもを区別する典型的な「強制の言葉」の一つである。夢を見ることは、多くの大人たちを不安にする。なぜなら夢を見ることは「日常生活の制約」から、つまり「余計なことを考えず、疑わしく不確実に見えるものから自分を守るための思考方法」から、自由になることを意味するからである。

(『私は戦争のない世界を望む』,p13)

「疑わしく不確実に見えるもの」とは、記事でここまでにずーっと言ってきたような「矛盾」もその一つでしょう。

つまり、グリューンの言う「夢を見ること」とは「現実から逃避すること」ではなく、「“現実”*12という場所を一度離れることで現実は矛盾に満ちていることをもう一度認識し直すこと(/そのチャンス)であるのだと思うのです。

 

 

矛盾を見つめたり、あるいはそれに耐えたり受け入れたり、折り合いをつけることがいかに難しいかは、ここまでに書いてきたことを振り返るまでもないでしょう。

…これ、言うほどお花畑で簡単なことかな?

 

少なくともわたしにはできないぞ。

ブログを読んだら何となくわかると思うけれど、わたしは現実とどうにも折り合いがつかないんだわ。

 

 

 

 

…わたしのことは置いておいて、ポケスペに話を戻すと

ファイツちゃんは「夢」はある?

 

こわいときはね、

自分の「夢」のことを思い描くの。

…でね。

 

めいっぱい今日を生きるの。

(54巻、p150-151)

ホワイトが「夢」と「生きる」ことを繋げているのは決して偶然ではない気がするのです。

最初読んだ時「何を甘いことを」とかちょっと思ってしまったことをここに懺悔しておきます。わたしの方が完全に“現実”に順応しておりました

 

きっと彼女の感覚からしたら、その二つは繋がっているものなのでしょう。

そしていささか綺麗にまとめすぎだけれど、それが「プラズマ団なるもの」に対抗する一つの力たり得たのもまた偶然ではないのかも、ですね。

 

 

ちなみに、Twitterで仰っている方がいたので知ったのだけれど、

「めいっぱい今日を生きるの」

ポケスペ恒例の「主人公デフォルトネームネタ」

という可能性があるそうですね。

 

B2W2の主人公名より、

【メイ】っぱい【キョウ(ヘイ)】を生きるの

と。

 

セリフを考えた人も気付いた人もどっちもすげえ。

 

 

 

 

最後に、グリューンの見方に立てば「夢」は「自由になること」とも繋がっていて、そのことはファイツの代名詞が「解放(にが)す者」であることとの関連性を感じさせます。

BW・B2W2編、あるいはポケスペ全体を考える上で「夢」はやはり一つのとても大きいテーマとして存在するのでしょう。

 

ちなみに、先ほどの引用の続きはこうで、なぜ「夢を見ること」は「生きること」を意味するのかを説明しています。

多くの大人は「偽りの真理」を防壁にして、自分を閉じ込めている。この防壁は彼らに、「自分たちは予期しないできごとから守られている」とか、「自分の人生を、思い通りに操ることができる」という思いを抱かせる。しかし予期しないできごとのない人生とは、何なのか。「自発性や好奇心」「人間の共生」「新しいもの、異質なもの、未知なるものに対する喜び」と、「安全」とは正反対のものではないか。安全を求めることによって、私たちは生命のすべてを死に至らせてしまう。それに対して、夢を見ることは生きることを意味する。夢は、無知の壁を破り、人生の中で可能なすべてのことに目を開かせる。

(『私は戦争のない世界を望む』,p13-14)

余談ながら、この下りはBW・B2W2編に続く章であるXY編のテーマとの関連性も感じたり。

「オトナ」と「子ども」。

「思い通りに操ることができる」。

「安全を求めることによって、私たちは生命のすべてを死に至らせてしまう。」

などなど。

 

 

もちろん、BW・B2W2編で言えば主人公たち。

 

「夢」が他ならぬ「自分」の内側から湧き出てきて、それが好奇心や可能性となって広がっていくブラック、

「夢」が「生きること」としっかりと繋がっているホワイト、

「夢」と「自由」を苦悩しながらも体現するファイツ。

 

 

ラクツ?

 

彼はダークヒーローですから。

彼はもしかしたら寝ている時にだって夢なんか見ないかもだし、このホワイトとファイツの会話(54巻、p149〜152)のシーンの間、表情が全く動いていなくてこわい、明らかに「違う軸」の人として描写されていますもんね。

 

言うなれば彼は、プラズマ団」とは違う位置からBW・B2W2編における一つのアンチテーゼを担っているのかもしれません。

…こんなこと、しっかりと描写されているのだからわざわざ書く必要などどこにもないのだけれど。

 

 

 

 

……。

じゃあ、わざわざついでに。

 

そんなキャラまでいて、しかもそれが主人公の一人。

やっぱりポケスペってすごいね。

 

以上です。

 

 

 

 

まとめ

まとめはもう簡単に。

今回の記事を書くにあたっては、映像の力を感じることが多かったです。

 

視覚情報の持つ力はやっぱりすごいですね。

漫画もそうなのだけれど。

 

 

というわけで、興味が湧いた方はぜひ紹介した映画なども観てみてね!

テーマがテーマだから見終わった後はけっこう暗い気持ちになるけれど、それでも一見の価値はあると思います!

 

すさまじく長い記事でしたがお付き合いありがとうございました。

それでは〜!

 

 

 

 

参考文献

共同通信社社会部編『裁かれる教祖』共同通信社,1997

アルノ・グリューン,村椿嘉信・松田眞理子訳『私は戦争のない世界を望む』ヨベル,2013

高山文彦麻原彰晃の誕生』文藝春秋,2006

スタンレー・ミルグラム山形浩生訳『服従の心理』河出書房,2012

村上春樹アンダーグラウンド講談社,1999

村上春樹『約束された場所で』文藝春秋,2001

森達也『A3』集英社,2010

安冨歩『合理的な神秘主義』青灯社,2013

 

 

 

 

脚注

*1:そもそも「批判的かどうか」で言えば、映画を観ても本を読んでも監督はかなり教団に対して批判的であることがわかります。まぁ、「悪魔」みたいなものとしては描いてはいないけれど

*2:それが逆説的にある種のメッセージや表現となっている、とも思ったけれど

*3:テレビや報道の一面にはある種カルト的な要素がある、という点にはあえて触れないでおきます

*4:付け加えておくと、森達也監督のこの発言も彼の様々なメディアに対する批判的な眼差しを踏まえるとこれはフォローのつもりではなく、あえてそういう“意地の悪い”言及を被写体にぶつけてみたのだと思ったり

*5:ちなみに、今回の記事のテーマからすると、ここで単純に「ちゃんとしている/おかしい」と切り分けてしまっているのは許して

*6:かんせい:落とし穴。わな。
ここでの意味は「うまい話には常にウラがある」みたいな感じ

*7:この辺りは『A3』の森達也監督の見立てや、「ミルグラム実験(『服従の心理』あるいは『合理的な神秘主義』のミルグラムの項など)が参考になるはず。

一応すごく簡単に説明するするなら、人は行為の「コンテキスト(文脈)」を見ないようにすると、あるいは見失うと、時に何でもできてしまうようになる、ということ

*8:『約束された場所で』の巻末の村上春樹さんと河合隼雄さんの対談で現実の事件に対してそのような示唆があるけれど、それはプラズマ団にも適用可能だと思うのです

*9:オルタナティブ・ロック」という「とりあえず分類できないのにはこれでも付けとけ」というジャンル名…のことではない。別の選択肢とか、新しい道みたいな意味

*10:細かいところだけれど、ここでゲーチスが「夢」と「野望」をわざと混同して使っているのはほんっとに狡猾だし、それを見抜いて指摘するホワイトはかなりすごい

*11:言うまでもなくこれは「特異な能力」が問題なのではなく、何事においても「◯◯すべきである」みたいな思考のクセを暗黙に前提にするとそれが落とし穴となりやすいからである

*12:ここでいう“現実”とは「実際の現実」のことではなく、わたしたちが作り出した“現実”のこと