けいのブログ

Key's Bricolage-log

【ポケスペ考察】フラダリとは、フレア団とは何だったのか

■フラダリとフレア団を、カロス地方で起きた“現象”として考える。

 

■正直、こちら↓を読んでいただければ内容としては十分です(PC推奨)。それで物足りない人はこの記事、という順番がいいかも。

keypksp.hatenablog.com

 

 

フラダリとファシズム

今回の議論は「複雑さを生きる安冨歩の『第4章 動的な戦略』(および、本全体)に大きく依拠していることを述べておく。

そこから、「ポケットモンスターSPECIALのフラダリ」をファシストの側面から捉えてみたいと思う。

 

なぜなら、フラダリの思想やフレア団のあり方にはあまりにもファシズムに対する親和性があり、まとめてみるに足るテーマだと考えられるからである。

 

 

ファシズムの定義が必要な方はこちらをどうぞ。

ファシズムは産業化・都市化・大衆社会の形成につづいて現れた現象であり、ブルジョア文化に抵抗し、物質主義・商業主義・個人主義に反対する。民主化に伴うと看做される平民化・凡庸化・陳腐化を嫌悪し、根底的に改造された社会における生気あふれる若者を志向する。国民の伝統・神話・理想のもとに結集する共同体を通じ、大衆のエネルギーと忠誠心を動員することで議会主義・資本主義・社会主義を乗り越えようとする。ファシズムは、新しい技術の時代に対応した専門家に指導され、高度に組織された効率的な社会を目指す。

(後略)

(Gat 1998,pp.2-6)。(安冨、p170、太字は筆者による)

 

 

最初に、フラダリの主だった主張を引用してみる。

 

なお、他にも重要な発言はあるが、趣旨としてはこれらの発言と重なっていること、

および加筆修正の可能性を考え、

引用は通巻版55〜60巻の範囲のみとした。

この世界はもっとよくならないといけない!

そのために選ばれた人間、選ばれたポケモンは努力しなければならない!わたしはそう考えている!

われは求めん!

さらなる美しい世界を!(56巻、p11)

世界を永遠のものとしてすべての美しさを美しいまま保ちたい。

そう願うわたしとは相容れないとそのとき思ったよ。(56巻、p177)

わたしは世界がみにくく変わっていくことがたえられない。

それをくい止めるのは選ばれた者の責任だ。(56巻、p179)

もう何年も前からわがフレア団のボスは

「世界がやがて行き詰まる、すべての生命は救えない、選ばれた人のみが明日への切符を手にする。」

そう見通していたのだ。(59巻、p79、発言者はコレア)

「力なき者から奪ってでも、力ある者に与えなければ美しい世界は取りもどすことはできない…」(59巻、p177、発言者はティエルノ)

 

 

各発言について

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追記:このテキストを元にした議論の結果、実は

「フラダリの思想」とフレア団の思想」は似て非なるもの

ではないか?という仮説が出てきた。

 

このテキストでは箇所によっては厳密な両者の区別ができていないことをご了承いただければ幸いである。

が、議論自体に問題はなく(図らずも正確に記述できている部分も多い)

いずれ、修正する予定ではあることを加えて述べておく。

 

なお、この点をより知りたい方は議論編の方を参照されたし。

keypksp.hatenablog.com

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①「この世界は〜」

①については、これ単体であればある意味“マイルドな”発言と言えるかもしれない。

ただし、既に思想の「危うさ」は露呈している。

 

その最たるのは「選ばれた人間/ポケモンが〜」のくだりであり、これは

少数の選ばれた人間は理性を具有しており、それ以外の大衆は理性を具有していないと考えれば、その少数者が大衆を指導し制御することが、理性を復活させる方法ということになる。このような手前勝手な理性への信頼が、ファシズムの背後にあるのではなかろうか。(安冨、p172、太字は筆者による)

という像によく似ている。

 

ここで出てくる「理性」に

「美しさ」や「力」といった言葉を代入すると、

そのままフラダリでありフレア団の思想となる。

 

②「世界を永遠のものとして〜」

この発言は、極めて重要である。

一番何でもないセリフに思えて、これこそがフラダリおよびフレア団

思想の根幹と呼べるものだからである。

 

この思想は、「理想」としてなら許容されるだろう。

「できない」けれど「できたらいい」と考えるのは、いわばドラ◯もんに頼むようなものであり、

空想に留められているうちは何の問題もない。

 

だが、これを現実のものとして実行しようとするなら、たちまち破綻することになる。

「できない」ことを「できる」と言ったり「やってしまう」と、必ず欺瞞を発生させる。

 

 

その欺瞞のツケは、誰かが払うこととなる。

ちなみに、「これ」を自分ではなく他者に払わせることに成功すると、

巨大な権力を有することも可能となる。

 

ただしそれは常に最終的に悲劇が約束されたもの、であるが。

対象は自分かもしれないし、他者かもしれず、社会全体かもしれない。あるいは、その全てか。

 

 

このツケを他者に払わせる“うまい”方法は、

「他者のせい」にすることである。

 

そうするとまず自らが欺瞞から解放され、

そして、同じように欺瞞のツケから「解放されたがっている」人々の力を束ね*1動員することまで可能となる。

 

 

具体的なやり方としては、

 

例えば『美しさ』が実現しない(/失われた)のは、

「美しくない者たちがいるからだ」

「美しさを与える(享受する)のに値しない者たちまで得ているからだ」

 

というように行うのである。

こうして攻撃対象と理由が(恣意的に)設定され、

“敵”が明らかとなる。

 

 

このやり方が巧みだと、権力を獲得することができるようになる。

 

 

これもそのままフレア団の思想であり、姿である。

これが“論外な”やり方であることは言うまでもない。

 

 

ここで重要なのは、「理由」は後から用意されている点である。

まず欺瞞があり、そこから欺瞞にふさわしい理由が“後から”見出されるのである。

 

 

ちなみに、フレア団が「美しさ」や「力」について言及する時、

必ずと言っていいほど「美しくないもの」や「力なき者」といった

「否定形」が付いてくる。

 

これは、「否定形」なくしては「主張」を語ることができない(/比較なくしては語ることができない)

=そもそも「主張自体」が「はりぼて」

であることを示唆する。

 

 

具体的に言うなら、実はフレア団にとって「美」や「力」など本来はどうでもよく、

「ある欺瞞」の隠蔽に「美」や「力」が適しているから“方便”として使っているに過ぎない、ということの示唆である。

 

例えば、本当に「美」や「力」なるものを世界に広げようとするなら

「奪って分ける」ではなく

「美/力の総量そのものを増やす」

など方法はいくらでもある*2

 

 

…まぁ、この方法に対する“反論”はちゃんと④や⑤の「総量には限界がある」として用意されているのだが。

 

だが、この④、⑤もまた欺瞞であることは言うまでもない。

 

 

そんな中、恐らく唯一と言っていい「はりぼて」でない思想は、

この②「世界を永遠のものとして〜」である。

 

これは否定形なく存在しており、よって、他の発言から感じられるような欺瞞の匂いも感じない。

 

 

ただし、繰り返しになるがこの思想は“達成不能”であり、

実現を目指すとたちまち「欺瞞」を生み出すこととなる。

 

 

余談ながら、永遠という「固定化された状態」を志向するのも、

「動的な戦略」という「無形」の状態ではなく

「計画制御」(後述)という固定的で直接的なアプローチを志向する“ファシストらしさ”を匂わせる。

 

③「わたしは世界が〜」

これは①と同根なので割愛。

やはり、「少数の理性による社会の制御」を志向していることが窺える。

 

④「世界はやがて行き詰まる」

この発言は少し難しい。一見もっともらしいことを言っているからだ。

例えば今の現実で言えば、

環境問題などを考えれば将来の破綻は“ある意味”間違いなく予定されている。

 

ポケスペの世界がどうなっているのかはわからないが、そう大きくは変わらない気もする。

そうなると、この発言の「行き詰まる」という部分に関しては正しい。

 

 

だがここには2つの問題がある。

 

 

まず1つは、フレア団の「思想」は、ここまでに見てきたように、

フラダリの欺瞞からスタートしてきていることが窺える。

 

そうなると、他のあらゆる要素はこの欺瞞の隠蔽のために用意されたものに過ぎない。

 

「社会の行き詰まり」は、“たまたまそこにあったので”、もっともらしくとって付けられたものに過ぎないのである。

 

 

“正しいこと”が、何か別の“正しい”ことを保証するとは限らない。

問われるべきなのは、「それ」そのものの“正しさ”であるのだから。

 

 

事実、この“正しさ”は、後ろ2つの「生命の数を間引くべきだ」という、

グロテスクで飛躍した結論に接続されている。

 

いくら「破綻という将来」が

“正し”くても、それが結論の

“正しさ”を証明しないことを、

このことは明確にしている。

 

 

こういうすり替え(あるいは、権威付け)は、ただのペテンである。

 

 

そしてもう1つが、計算量爆発の問題である。

 

発言者のコレアは、フラダリが世界のゆくえを「見通していた」と言っているが、原理原則で言えばこれは不可能である。

それを裏付けるのがこの計算量爆発という問題で、

 起きうる問題がN個あれば、それぞれの問題が「起きる/起きない」の二つしかないとしても、その組合せは二のN乗ある。Nが少しでも大きくなると、その値は爆発する。起きうる問題が五〇個あればその組合せは二の五〇乗、すなわち

 

 一、一二五、八九九、九〇六、八四二、六二〇通り*3

 

 ある。これはどういう数かというと、不眠不休で一秒間に一つ数えるとして、数え上げるだけで三五七〇万年以上かかる。(安冨、p117)

というものである。

 

「見通せないもの」を「見通せる」と言ってみせるのも、やはりペテンである。

 

 

ちなみに、ではなぜ人間がこんな複雑な世界で生きていけるのかというと、

安冨はそれを「人間の持っているシステムに内在する複雑さ」が機能しているから、と予想している。

 

⑤「力なき者から奪ってでも〜」

これはまさにファシストの本性を晒したセリフである。

 

先述の「少数の理性による社会の制御の志向」および

「欺瞞のツケを弱者に支払わせたい」ことをむき出しにしたセリフである。

 

 

科学技術とファシズム

こうして、5つの発言からフラダリがファシズムに親和性の高い人物であることが示唆された。

そうした視点に立つと、ホロキャスターの開発者という肩書きにも奇妙な繋がりが見えてくる。

 

安冨はイスラエルの軍事思想史家アザール・ガットの主張から、

ファシズムは、新しい技術の時代に対応した専門家に指導され、高度に組織された効率的な社会を目指す。その象徴として、自動車と飛行機がファシズムと密接な関係を持っていた、とガットは主張する(Gat 1998,pp2-6)。(安冨、p170)

ファシズムと科学技術の親和性を指摘する。

 

そう考えると、ファシストたるフラダリがホロキャスターという

「最新技術」の開発者…

より正確には

「そうした技術の看板たる人物だったこと」

には、一種の必然性がある。

 

これはポケスペではないけれど

www.youtube.com

こういう“イメージ戦略”には強い力がある。

 

 

なぜファシズムにおいて最新の科学技術が要請されるのかというと、

やはりそれは「計画制御」アプローチとの親和性*4ゆえであるという。

 

「計画制御」とは

ここでそろそろ、後回しにしていた「計画制御」について説明しなければならない。

だが、ここは正直飛ばして次の章へ行っていただいて大丈夫である。

深く知りたいと思った時に戻ってきてください。

 

 ものごとを事前によく調査し、それを元に計画を立案し、十分に吟味し、その上で実行し、成果を評価する。このような枠組みは当たり前のものとして受け入れられているといってよかろう。このようなやり方は、社会にかかわる場面のみならず、機械の制御などでも広く採用されている。この枠組みを一般的に「計画制御」と呼ぶ。(安冨、p109)

この「計画制御」は現在、どこでも見られる考え方である。

最も一般的なのは「PDCA(Plan-Do-Check-Action)サイクル」である。

 

しかし、安冨はこの「計画制御」という考え方は現実から乖離したもので、「うまくいくはずがない考え方」であると強く主張する。

 

少し長いが、重要なのでここも引用する。

 本章の主張は、このような方法を人間の関与する事態に適用することは、原理的に不可能だということである。「調査・計画・実行・評価」という枠組みがうまくいかないこともある、と言っているのではなく、いつもうまくいかないはずだ、もしうまくいくことがあるとしたら、それは別の理由があるはずだ、という強い主張である。

 この主張は、一見すると常識外れに見えるが、会社、学校、ボランティア団体、行政組織など、さまざまの組織の「現場」で働いている人々は、上層部が「調査・計画・実行・評価」という枠組みで現場に臨んでくるとき、往々にして反感を抱く。それは、このようにして上から降りてくる計画が、常に現場の事情と矛盾しているからである。このよくある事態は、現場の人々がこの枠組みの本質的問題に気づいていることを示唆している。(安冨、p109)

しかし、その反感とは

 しかし、たいていの場合、反感を抱いた現場の人々の口にする不満は、「よく調べないでこんないい加減な計画を立てる上層部は愚かだ」という類のものである。人々がこのような形で不満を持つということは、「良く調査して計画すれば、このような矛盾は生じないはずだ」と期待していることを意味する。(安冨、p110)

であり、「計画制御」そのものへの反感ではないことは往々にしてあることである。

 

かくいう私も、現実においてそう感じる場面はこれまで多かった。

 

だが、安冨は「計画制御」そのものへの疑問を呈する。

 だが、良く調べられていて、現場の事情と矛盾しない詳細な計画、というものがあったためしがあるのだろうか。問題なのは計画の立て方ではなく、「調査・計画・実行・評価」という枠組みそのものではなかろうか。(安冨、p110)

 

ここから安冨は、それを証明するために、逆説的に「計画制御」でうまくいくものがあるのか?と考察していく。

例えばそれは砲弾の発射であり、ASIMOの歩行と人間の歩行の比較であり、「新製品開発プロジェクト」である。

 

だが、そのどれもが「計画制御」しようとすると大きな困難を露呈することになる。

 

 

その理由を、安冨は

「世界が“ある安定的な状態”にある」

ということは

「事物の複雑な相互関係によって『そうなっている』(=仏教で言えば「縁起」)」

 

ということであり、そこから

 

「『結果』(=こちらを仏教で言えば「因果」)だけを取り出して制御しようとしてもうまくいくはずがない」

と指摘する。

 

 

要するに、

「複雑なシステムで動いているもの」を

バラバラにしてしまうと必ず不具合が生じる、ということである。

 

 

例えば、ものすごく単純な例として時計を想像してみてほしい。

時計から時間という「結果」を得る場面を想定するとしよう。

 

ここで、時計の短針、長針が時間を指すからといって、

時計をバラバラにして短針、長針「だけ」を取り出してしまうと、

「それら」だけでは時間はわからず、また、時計という「システム」自体がその機能を失う。

 

時計から時間という「結果」を得るためには、

  1. 時計に電力が供給され
  2. 文字盤の上に長針、短針が揃い
  3. ある規則性によって動いていて
  4. その法則を「時間」と認識する「あなた」がいる

ことで、はじめて得られることとなる。

 

このことは長針、短針の動きという

「ちがい」グレゴリー・ベイトソン

だけでは時間という「結果」(=「情報」)を作り出すことはなく、

 

長針、短針の動きという「ちがい」が「あなた」の内側で起きる

「時間を知った」という「ちがい」

を惹起することではじめて「結果」(=「情報」)が生成されていることを示している。

 

(この「情報」のことを、

「ちがいを生むちがい」

(A difference which makes a difference)

ベイトソンは定義したという)(安冨、p13より)

 

 

「結果」は、こうした複雑な「システム全体」によって

“生じて”いるのである。

短針や長針に「だけ」注目して「結果」を取り出すことは、時計からでさえできないのである。

 

 

とはいえ、時計程度であれば

「計画制御」することは不可能ではないだろう。

  1. 上述のような「システム」で成り立っていることを調査して把握し、(この程度であれば調査も把握も可能であろう)
  2. 時間を知るには「時計」と「あなた」が必要であることがわかったら、
  3. 「それら」を手配する計画を立て、
  4. 実際にその計画を実行し、
  5. 時間がわかったかどうかを評価する

 

こうして、時計から時間を知るという「計画制御」は達成される。

 

ただしそれは、「『あなた』の認識」という「複雑なシステム」の力に頼って、あるいは不問にすることによって、である。

 

 

この時計における「計画制御」は、「『あなた』の認識」が問題なく作動することが前提となっているが、いつもそれがうまくいくとは限らない。

そして、そんな複雑きわまりない「人間の認識」なんてものすべてに対応する計画を作り出せる人などいるのだろうか?

 

 

例えば、もしもこの「あなた」がじっとしていられない子どもだったら?

「わたし」が時間を知りたいときにちゃんと時計の前にいてくれるのだろうか?

 

もしも「あなた」が言葉の通じない外国の人で、

「時計から時間を読み取って教えてくれ」という

「わたし」の意志が通じなかったら?

 

そもそも、もしも「あなた」が赤ちゃんで、時計の読み方も言葉も知らなかったら?

 

 

…こうした無限の“もしも”に対応する計画など、

「調査・計画・実行・評価」の枠組みで作り出せるはずがない。

 

 

余談ながら、それでも「調査・計画・実行・評価」の枠組みが求められるのは、

「責任」概念があるから(必要とされているから)と安冨は説明している。

 

「誰が」「どこで」「何をしたために」「何が起きたのか」がわからなければ、

「責任」の所在を求めることができないためである。

(けれど、世界が複雑な相互関係で“成り立っている”ことから考えると、そもそもの「責任」という概念のあり方を考え直さなくてはならない、と安冨は同時に指摘する)

 

ただ、ここは今回の話には関係がないことと、

いずれ別の機会に触れようと思っているのでひとまず省略する。

 

 

繰り返すが、“時計でさえ”こうなのである。

ならば「社会なんてもの」に関しては、言わずもがなである。

 

 

このような「複雑なシステム」とは「無限の多様性をもつもの」(安冨、p175)であり、

これを有限の記述(同)(=「調査・計画・実行・評価」)で捉えることはできない。

 

 

「できないもの」を「できる」とした時、そこには必ず矛盾や欺瞞が生じ、それを隠蔽する必要や欲望が生じる。

 

 

フレア団と「計画制御」

これだけ長い引用と説明が必要だったのは、(お疲れ様でした)

フレア団

「計画制御」に強い

親和性が見られるからである。

 

一番端的に示しているのは、皮肉なことに、あるいは奇しくも、

「最初の『最終破壊兵器』の発動の失敗」の際にAZが放った言葉である。

おまえたちが「奪われるだけの存在」と侮っていたか弱き者たちの必死の抵抗が…、

そのおごった計画にヒビを入れたのだ。(59巻、p18、太字は筆者による)

 

このセリフは、

 

「計画制御」的な考え方は、上で計算量爆発や無限の多様性の問題で述べたように

“侮っていた存在”程度が起こす「ノイズ」で簡単に不具合を起こす、ということを示している。

 

もしくは、“侮っていた存在”という評価が根本的に間違っていた、という可能性も示している。

 

「計画制御」において、この「評価ミス」は致命傷であるし、

 

こうした「評価ミス」が致命傷になるのは、「計画制御」が

「調査・計画・実行・評価」

“しなければならない”からである。

 

 

つまり、これらのことは、このフレア団の「計画」がいかに

「計画制御」的であったかを証明しているのである。

 

 

ちなみに、仮にフレア団が反対の「動的な戦略」を採用していたなら、

多分「カロスの支配」が終わった時点でフレア団の「野望」は終わっていたはずである。

 

 

「動的な戦略」が目指すのは「コンテキストの変革」である。

余談だが、この最たる表現方法がテロリズムである。

 

 

「カロスの支配」という「コンテキストの変革」が完了した時点で、

「動的な戦略」は達成される。

 

そしてその「コンテキスト」とは、「計画制御」とは違い

“ノイズ”ごときではびくともしない“タフな”ものである。

 

それを、コレアの発言が証明している。

今さら気づいたお前たちが大騒ぎしたところで、

選ばれた者のみの世界になることは変わらない。(59巻、p79)

この前部分が「動的な戦略」で、

後ろ部分が「計画制御」である。

 

一応説明しておくと、前は「カロスの支配が完了しているから」であり、ゆえに「動的な戦略」とみなすことができる。

 

「カロスの支配」とは、明確な形を持たない「無形」孫子である。

 

それは少しの変化−−−例えば、フレア団の壊滅−−−が起きても、総体の「カロスの支配」という「コンテキスト」に打撃は生じない。

それは、XY編の最終話が証明している。

変化に対応して、「カロスの支配」の姿もまた変化していく。

 

これはまさに“タフな”「動的な戦略」である。

 

 

反対に後ろが「計画制御」なのは「最終破壊兵器」の発動が前提になっているからで、

「最終破壊兵器」の発動を“目指す”のは「計画制御」的である。

 

「最終破壊兵器」の発動がわずかにでも狂うだけで、こちらの計画はたちまち大きく狂い出す。

その姿は、「動的な戦略」と比べるまでもなくあまりに脆弱である。

 

 

ゆえに、このAZの「おごった計画」という言葉が指すものは、

 

人やポケモンを身勝手に

「美しいもの/美しくないもの」

「ふさわしいもの/ふさわしくないもの」と

ジャッジする姿勢と共に、

 

「“複雑な世界”を操作可能である」と強弁する

「計画制御」的な姿勢も含めて

、ではないだろうか?

 

 

そして何より、

「美しくないものを一掃すれば美しいカロスが蘇る」

という発想および論理こそ、

最も「計画制御」的である。

 

 

この安易な「原因 - 結果」の接続が、

「世界」という「複雑なシステム」を

バラバラにして操作しようとしている証拠

であることに疑いの余地はなく、

 

それはつまり、この論理もまた

「計画制御的」であることを示している。

 

 

「計画制御」…正確には

「計画制御の持つ不可能性」とファシズムには密接な関係があると安冨は予想する。

 

 

フレア団はフラダリの「世界を永遠のものとして美しいまま保ちたい」という

“妄想”からスタートし、その「不可能性」にぶつかった時に

「美しさが失われるのは美しさに値しない者まで不正に得ているからだ」という欺瞞を作り出した(はずである)

 

そこから彼らは「美しさを取り戻すための」“計画”を立て、それには「計画制御」アプローチが採用された。

 

だが、この計画は“妄想”から始まっていること、

加えて「計画制御」である以上、再び彼らの前には「不可能性」がいくつも立ち塞がることとなる。

 

かくして、また新しい欺瞞が求められ、それは連鎖し続けていく…

 

 

これが、ポケスペにおけるフレア団の行動と失敗の理由−−−そこには、不可能が宿命付けられている−−−である。

 

 

この構図は、詳しくは後述するが、これこそがファシズムの本質である。

 

誰かの“妄想”を端に始まり、生じた欺瞞は「荒唐無稽な(/天才的な)イデア」で「隠蔽」する。

よってそこには、先鋭化と失敗が宿命付けられている。

巨大な暴力と破壊を伴って。

 

 

他にも、特にA班(チーム・ア)の幹部たちの言動に「計画制御」的な匂いを私は強く感じる。

 

 

フレア団陰謀論

これで、フレア団ファシズムの親和性について語ることができた。

 

最後のテーマは、フレア団陰謀論の親和性についてである。

ここには2つの視点がある。

 

1つは、「美しくないものを一掃すれば美しいカロスが蘇る」という思想の「陰謀論っぽさ」。

もう1つは、カロス地方を裏から支配する(した)というフレア団の姿の、やはり「陰謀論っぽさ」。

 

 

分離と投射

これは、まずフラダリおよびフレア団の主張の論理構造を、

アリス・ミラーのいう「分離と投射」を元に考える。

 

ちなみに、Wikipediaで調べるとこれは「投影」という言葉で説明されている。

ので、概論的説明はそちらに譲る。

ja.wikipedia.org

 

ざっくり言うと、認めたくない自分の「ある要素」を「他者の問題」とすり替える心理上の動きのことである。

 

この人間の心理的機能の「悪用」は、歴史的には目新しいものではなく、

例えば、ほとんどの征服戦、十字軍の歴史、異端審問、

むろん近代の歴史中にも常に使われていて、

そして、(既に考えが及んでいる人もいるだろうが)ナチスドイツにおけるユダヤ人の虐殺」もそうであるとアリス・ミラーは言う。

 

 

当時のドイツは「闇教育」(激しすぎる「しつけ」や「教育」)全盛の時代であり、「傷つけられた子ども」がたくさんいた。

その「傷」は彼ら彼女が大人になった時も続き、第一次世界大戦後の強烈な社会不安も加わり、

その「はけ口」が(無意識的に)求められていた。

 

 

そこに「ユダヤ人」という「投射対象」を与えてみせたのがヒットラーであるとアリス・ミラーは言う。

 

 

ユダヤ人」に、アーリア人における「悪」*5を押し付け(=投射)

自らが「欠けたるところのない」アーリア人であるという認識*6を国民たちに与え、

何より「過去の傷に対する復讐」の機会を作り出した、のだと。

 

 

思想の「陰謀論っぽさ」

ここでフレア団の思想に話を戻すが、

 

「美しくないもの」を除けば

「美しいもの」

を取り戻すことができる

 

という論理構造は、ここまでに示した「分離と投射」の論理構造そのままである。

 

「認めたくないもの」を

「他者の問題」とし、

それを除くことができれば

「自分の問題は解消される」

 

と、全く同じである。

 

余談ながら、Twitterで山本先生が「個性的な」フレア団員を登場させたところ監修(これがどこの監修を指すのかは不明)から“訂正”されたという話を明かしている。

フレア団にこうした“ルッキズム”があることも、

「分離と投射」への親和性を感じさせる。

 

 

話を戻す。

そして恐らく、多くのいわゆる

陰謀論」も、これを同じ論理構造をしているはずである。

 

 

「否定したい現実」や「欺瞞」を

(存在しない)隠された攻撃者」

とすり替え、

その正体を暴こうとしたり、時には打倒を目指すことで「自身の心理上の防衛」を達成する…

 

 

フレア団の思想と「陰謀論」に親和性があるのは、こうした同一の論理構造が認められるからである。

 

 

カロスの支配という「陰謀論

このことは、フラダリおよびフレア団の思想がやはり「欺瞞ありき」でできていることを証明する。

 

「美しくないもの」を除けば

「美しいもの」を取り戻すことができる

 

の論理構造が持つのは、

「ある現実」の否認である。

その否認のために、欺瞞が動員される。

 

 

ポケスペのフラダリが卓越していたのは、

この欺瞞を「欺瞞と見せない」能力だろう。

 

ただし、それは「論理的に優れていたから」ではなく、

「人々の欲望に応じた形に拵えてみせたから」である。

 

 

順を追って説明する。

まず基本的なこととして、読者からすればフラダリの主張の荒唐無稽さは認識できる点について。

 

その主たる理由は、多くはメタ的理由*7によるものだろうが、

もし、そうした理由を知らなくても、フラダリが怪しいことは十分に伝わる。

 

それは「第三者からしたら『陰謀論なるもの』は荒唐無稽である」ということであり、

逆説的にこれが「陰謀論的」であるということを裏付けている、と言えるかもしれない。

 

 

とはいえ、現実の読者が置かれている状況と作中の人物たちが置かれている状況は異なるため、

現実の読者がフラダリの怪しさを認識できたとしても、

それをそのまま作中の人物たちには当てはめることはできない。

 

 

では、作中の人物たちは実際にはどうしていたのかを推測するために、

コレアの発言を手掛かりにしてみる。

 

以下は、④の発言に続いて述べられたものである。

そのボスの言葉に賛同する企業、報道機関を掌握、

「自分たちは当然選ばれる側に入っている」と思い込んでいた彼らはいとも簡単に従ってくる。

彼らがボスの意のままに動き、多くの民はそれを知らないまま支配は進んでいった。(59巻、p79)

この発言がすごいのは、

  • そうした機関の誰もが、ここに存在する「欺瞞」を見抜くことができなかったこと

もだが、それより

  • むしろ、「すすんで騙された」

ということを示唆している点である。

 

 

なぜ彼ら彼女らが「すすんで騙された」のか、ここまで読まれた人なら想像がつくはずである。

 

彼ら彼女らもまた何かの欺瞞の隠蔽を望み、そのツケを誰かに押し付けたかったのではないだろうか?

 

 

もちろん、作中にそれを直接示すものはないので、ここは私の推測にすぎない。

 

だけれど、例えばミアレ出版の編集長の「胡散臭さ」を見れば、

たちまち一目瞭然となるはずである。

 

金、名誉、出世欲…こうしたものに人を駆り立てる「情熱」は、

何かの「隠蔽」への情熱ではないだろうか?

(ここについて詳しく知りたい人は、「生きるための経済学安冨歩第七章 自己欺瞞の経済的帰結 などを参照されたし)

 

 

そもそも普通に考えて欲しいのだが、

「『選ばれる側に入っている』と思い込むこと」によってのみで、

『いとも簡単に』破壊的行為の片棒を担ぐ」など、

まともな神経をしていたらできないはずである。

 

 

この矛盾は、

  • 本当に騙されていた

という可能性もあるが、

  • 「そうすること」で金、地位、名誉など具体的なメリットがある

  • 順番が逆であり、元々そうした破壊的行為に対する欲望があり、そこに「都合の良い口実を与えられたから」喜んで参加した

と解釈すれば解消される。

 

 

いずれにせよ、

フラダリの思想は論理的な正しさゆえに支持されたのではなく、

その理由の大きな部分は、

「ただ単に、人々の『ある欲望』を叶えるのにふさわしかっただけ」

と言えよう。

 

 

エティエンヌ・ラ・ボエシという、16世紀のフランスの若くして亡くなった裁判官・著述家がいる。

彼は「自発的隷従論」という論文の中で、

 

圧制者が振るう権力とは、

「圧制を自らすすんで支える」(ことによって利益を甘受する)

多くの人々によって出現し、強化される

 

と指摘した。

 

 

ポケスペフレア団の「カロス支配」は、まさにこれである。

 

「すすんで騙されたがっていた」多くの人々が社会のいたるところに満ち、

そこにフラダリという「それにふさわしい神輿」が出現した時、

 

陰謀論じみている」はずの「カロスの支配」は現実において

達成されるべくして達成される(/た)のである。

 

 

ファシズムの本質

安冨は、(この本の中ではないけれど)ファシズムの本質は

 

「『一人の極悪な圧制者』が社会を強権的に支配して」起きる「体制」ではなく、

 

「社会が(例えば、大きな不安に包まれるなどして)“救世主を望む状態”に陥った時に、

『一人の天才的なカリスマ』が颯爽と登場し、うまく問題を誤魔化してみせる」

ことによって起きる「現象」と指摘する。

 

ファシズムとは、

“上”から起きるのではなく

“下”から始まるのである、と言う。

 

 

ポケットモンスターSPECIALフレア団の「計画」においては、

社会の多数の協力者が大きな役割を果たした。

 

この「事実」に対して多くの読者が「衝撃」を受けていたことは、ネットを軽く眺めただけですぐに窺うことができる。

 

 

この「衝撃」は、極めて重要である。

 

 

それは

  • 「物語のギミック」としての秀逸さ
  • 原作の大胆な解釈/アレンジ

であることもさることながら、

 

何より

が、仮に無意識であったとしても、読者の内側に起きていたからではないだろうか?

 

 

まとめ

安冨は陰謀論の不可能性を「計画制御」の観点から語っている(これも、この本の中ではない)

 

 

陰謀論の達成とは、例えて言うとそれは高度な「伝言ゲーム」の達成である。

 

 

陰謀論は、“陰謀”を“正確に”人々に伝達し、“その通りに”扇動しなければならない。

 

100人いないような規模の組織ですら、上から末端に意志を伝達し、動かすのは大変に困難であるのに、

社会や世界という規模の人間を相手にそんなことができるのだろうか?

 

 

安冨が語ったのはこれだけだったが、私がここから付け足すと、

 

陰謀論」はまず「社会をどう動かしたいか」という「意図」や

「目的」「目標」を設定しなければならない。

そこでまず「予測」や「分析」をしなければならなくなるが、

ここで既に「計算量爆発」の問題が立ち塞がる。

 

 

まず、この課題自体がクリアできないのではなかろうか。

 

 

こうして、これらの「課題」を超えるために「陰謀論が想定する敵」は

超人的な支配者によって指導され、規格外の規模を備え、

魔術的な技術を振るわなくてはならなくなる。

 

陰謀論が荒唐無稽になるのは、こうしたメカニズムがあるからであろう。

 

 

とはいえ、現実に「悪意」や「問題」そのものは存在するわけである。

 

しかしこれらは、「特定の人物」による「悪意」や「問題」として理解するのではなく、

そこを取り巻く社会や組織、人間関係といった

「システム(大抵の場合、それはコミュニケーション)

に生じている「エラー」として、理解しなければならない。

 

ここでも、「原因」だけをバラバラにして取り出すと、

全体像を見失うことに繋がる。

 

 

つまり何が言いたいかというと、

 

「フラダリ」および「フレア団」という“現象”は

カロス地方という

「システム」全体の問題として捉えなければいけない

 

ということである。

 

 

繰り返しになるけれど、極端な話、仮にカロス中の人々がフラダリの言葉に耳を傾けなければ

フレア団の支配など成し得なかったはずである。

 

つまりそれは「耳を貸した」人々の存在なくしてはフレア団は活動できなかったということであり、

そうなると、「耳を貸した」人々の存在を語らずしてフレア団を、フラダリを語ることはできない、ということである。

 

 

これこそ、「あらゆる人間が“抱き得る”普遍的な悪」であり、

 

XY編の、他章と一線を画すダークさは

この圧倒的でリアルな「悪の描写」によるもの

だと私は思う。ポケモンのコミカライズでこんなことをやるのか…さすがポケスペ

 

 

ファシズムのもう一つの本質は

「自己(の感覚)に対する

裏切り」であると安冨もアリス・ミラーも主張する。

 

ゆえに「欺瞞の行使」にも「暴力の行使」にも無感覚かつ、時には“気付かないフリ”さえできてしまう、と言う。

 

この「悪」に対し、

「感情を大事にするがゆえに“引きこもらざるを得ず”」

そのお陰で「感覚が非常に鋭敏」

“異色の”主人公エックスと、

「ハッキリとした言葉、ハッキリとした態度」を信条にするワイという

「自己を裏切らない」主人公たちが

対立軸として配置されている

ことには、明確な必然性がある。

 

 

この“配役の妙”は、称賛を贈って贈り過ぎることはないのではなかろうか。

 

 

 

 

以上の、最初に考えたフラダリの発言に潜むファシズムとの親和性、

そして、カロス支配という「陰謀」に潜んでいた「ファシズムの土台性」から、

 

ポケスペにおけるフレア団という“現象"がいかにファシズム的で、

それがいかに人々や社会に対して危険なものであったのかを、

そして、主人公たちがそれに対する明確なアンチテーゼであることを、

簡単にではあるが説明できたと思う。

 

 

こういうことを考えているのは恐らく原作者である日下先生だと思うんだけど、すごすぎる。

意図的か/意図的ではなかったか、はわからないけれど、正直私にとってはどちらでもよい。

 

重要なのは「書いてしまえた」ということである。

 

本当に、半端な作品じゃ太刀打ちできないほど「悪なるもの」の描写が正確で、すごい。

 

 

そして、それを漫画として表現できる山本先生も、すごい。

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追記:このフレア団の考察についてTwitterで山本先生とやり取りさせていただいたところ、

 

漫画がどのようしてにできているのか、は「シナリオ/まんが」というような区分で簡単に切り分けられるものではない

 

という考えに至った*8。なので、

 

両先生、すごい

ポケスペ、すごい

 

と結論を変更する。

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そして何よりここまで私の記事を読んでくれた人、あなたはすごい。

ありがとうございました。

 

余談も付けておいたので、ぜひ読んでみてくださいね。

それでは。

 

 

 

 

余談:「フレア団とは何だったのか」をコレアの発言から考える

幹部であるコレアは、フラダリに並んでフレア団の最重要人物である。

 

なぜなら、彼女の発言はフレア団の思想をよく表しており、おまけにどれもが決定的な意味を持っている。

 

 

それはここまでに何度も引用してきた部分が証明しており、

次に引用する発言もまた、その一つである。

支配に抵抗し、傷を治す暇も奪われて野山を逃げ回る生活と、

支配されてはいるがささやかな自由と目先の楽しみが与えられる生活、

カロスの人びとはどっちを選ぶと思う?

 

アサメが半壊し住民が行方不明になり、マスタータワーが倒壊しようと、

人びとは疑問や不安も日常の向こうに押しやり、「しかたない」とあきらめ受け入れ、無関心を決め込み安穏な方に流される。

 

そんな連中に未来を分け与える価値があると本気で思うのか?(59巻、p80)

これの何がすごいかと言うと、この思想は、

本文中で引用したラ・ボエシの「自発的隷従論」の考え方の一部にそっくりなのである。

 

ただし、ラ・ボエシは「未来を分け与える価値が〜」までは言っていない。けれど、

「そんな連中」に“批判的”という点では同じである。

 

 

ラ・ボエシのこの思想は、反権力・反体制の思想である。

 

それを権力側・体制側の悪の組織の幹部が言うという圧倒的な矛盾

 

 

もちろん、これはコレアが「大衆というものを極めて理解している」と解釈することもできるだろう。

事実、それは正解である。

 

 

だが、ラ・ボエシは権力者(圧制者)は絶えず暗殺を恐れなければならない*9ため、「賢い者」を側近にすることはできない、と指摘している。

それは、歴史上及び世界中の圧制者と、その周辺を見ていれば感覚として納得できるであろう。

 

コレアは幹部である。その点に照らして言えば、コレアが幹部でいられている(しかも、大きな信頼を寄せられている!)ことに疑問が生じてくる。

 

 

だが、ここでフレア団を権力側・体制側ではないとしたとき、この矛盾は解決され、フレア団の実像が改めて見えてくることになる。

 

 

結論から述べると、フレア団およびフラダリの正体とはテロリストである(/であった)、ということである。

正確に言うなら、権力を掌握したテロリスト、である。

 

ここでいう「テロリスト」とは、

(多くの場合恐怖*10や暴力によって)「コンテキストの変革」を目指す者、という意味である。

 

フレア団の作中の行いは、見事にこれをなぞっている。

 

 

ちなみに、ラ・ボエシはというと「恐怖的テロリズム」ではなく、

服従という「消極的」抵抗を勧めている。

 

これは暴力を用いないと言う点で“いわゆる”テロリズムとは異なるが、

「コンテキストの変革」を目指すという「動的な戦略」であり、

いわば「非暴力的テロリズム」と呼んでよいと思う。

 

 

話を戻す。

本文で既に指摘したように、フレア団は「カロスの支配」という「コンテキストの変革」を成し遂げている。

正直、これだけで“テロリストとしては”花丸である。

 

 

また、コレアという「賢者」が幹部でいられるのも、信頼を得るのも、この視点を導入するとすんなり理解できる。

 

 

テロリストの必須条件は「賢いこと」である。

 

この「賢い」とは、知能指数やお勉強の成績という話ではなく(もちろん、あるに越したことはないが)

「現実認識能力に長けていること」*11と、

変化に対応して「素早く動けること」である。

 

描写を見るに、コレアはこの全ての要素を満たしている。

 

 

なぜなら、テロリズムの根幹をなすのは、本文で触れたように

「動的な戦略」であるからであり、そのためには、まず

「この2種類の賢さ」なくしてはならない。

 

「圧制者の側近でいられるような」愚鈍なテロリストは、

いくら勉強ができようともテロリストとしては失格なのである。

 

 

とはいえこの「賢さ」が、フレア団の思想の「欺瞞」を看破できるかはまったく別の問題である。

アリス・ミラーが指摘するように、「傷」による「欺瞞」を見抜く能力は「理性」や「知性」とは別の領域にある。

 

自らの感覚を信じることができているかどうか、である。

 

 

コレアのように、いくら「賢く」ても、他人に危害を加えることに無感情でいられる人物では、

フラダリの「欺瞞」を見抜くことはできないと言えよう。

 

 

最後に、「最終破壊兵器が本当に発動していたなら、何が起きていたのか?」ということを考える。

それによって、フレア団のテロリストぶりはより暗示される。

 

 

最終破壊兵器とは、不発であれだけの被害を出す兵器なのだから、

本当の発動であればその破壊の規模は想像を絶するものだったであろう。

 

そんな破壊が覆い尽くした世界で、フレア団はどうやって生きていくつもりだったのだろうか?

 

 

…要するにフレア団の行為は、

カロス中を巻き込んだフラダリの無理心中として解釈されなければならない、ということである。

 

 

これは、権力者(圧制者)の発想では決してない。

彼らが目指すのはただ、自己の権力の維持と拡大のみである*12

 

「そうしていない」と、権力の座というものからはたちまち追い落とされることとなる。

それもまた、歴史上や世界中の圧制者が体現してみせている。

 

 

次に、その「権力」は、

ラ・ボエシの指摘によれば

「支える多くの人々によって」生じている点に注目しなければならない。

 

コレアの

「自分たちは当然選ばれる側に入っている」と思い込んでいた彼らは(59巻、p79)

という発言から、フレア団は、フレア団の外部の協力者は助ける気がなかったことが示唆されている。

 

つまり、最終破壊兵器の発動はこの権力構造を破壊することを意味する。

 

 

そんなことを望む「権力者」(圧制者)は、存在し得るのだろうか?

 

 

以上のことから、フラダリの姿は「破滅願望を持った人間」が

「権力を握ってしまったがゆえに」

起こそうとした(起きてしまった)悲劇、として理解されなければならない。

 

 

アリス・ミラーはヒットラーの生涯を世界全体を巻き込んだ自殺、と指摘したが、

フラダリの姿もまたそのように理解され得るだろう。

 

 

その「情熱」は、テロリズムに向かう人々の「情熱」と同じであるとアリス・ミラーは言う。

この観点も、フレア団の「真の姿」がテロリストであることを暗示させる。

 

 

そして「破壊が覆い尽くした世界」とは、最大最悪の形で

「コンテキストが変革された世界」であることが、それを何より証明する。

 

 

 

 

私は「コレアにあの短いセリフ(たった2ページ!)を喋らせる」だけで、

こうした構造や背景を鮮やかに暗示してみせる両先生は本当にすごい、と改めて畏敬の念を抱くのです。

 

 

だって、この記事は全体で17,500字をオーバーしている。

簡単な授業だったら単位取れますよ、これ。

 

だから、それを絵とセリフで表現してしまえる漫画ってやっぱりすごい。

 

 

 

 

■テキスト“が”元になったものはこちら。PC推奨。

keypksp.hatenablog.com

 

 

 

 

*1:ちなみに、ファシズムの語源は「束ねる」である

*2:ちなみに、私が考える“一番いい方法”は「美」や「力」の定義を変えてしまう、である

*3:嘘だと思うなら、例えばExcelで「=2^50」とやってみるとよい。本当にそうなる。筆者はやってみて驚いた

*4:高度な技術の導入によって、社会の高度な制御が可能になる(という“物語”)

*5:これは、上記の「闇教育」によって忌むべきものとされたものでもある

*6:つまり、「闇教育」の完成、理想形であるという認識

*7:ゲームをプレイしてフラダリの「正体」を既に知っている、など

*8:散々「複雑さ」の話をしておいて恥ずかしい限りである

*9:「権力」という座は常に激しい競争に晒されている、ということ

*10:テロリストの語源、「テロールTerreur」は「恐怖」という意味である

*11:特に、これがなければ「コンテキストの変革」が達成されたとしてもそれを認識できない

*12:ただし、その原動力として「こうしたエネルギー」が利用されることは多い、と言ってよいだろう。だが、やはり実現にまで移して「しまえる」人物はそうは多くない