非現実の王国へ行ってきた
このタイトルでピンと来る人はけっこういるでしょう。
ハイ、ヘンリー・ダーガーです。
かねてより興味のあった彼の絵に触れてきました。
と言っても、実物を見たわけでなく、あくまで本で読んだに過ぎないのですが。
ジョン・M・マクレガー,小出由紀子訳
です。
ただ、興味があったと言えど、この本を読む前の作品に対するわたしの理解としては
「ちょっと変わったおじいさんが描いた変わった絵」
というくらいのものでした。
大間違いでした。
誤解がいっぱいありました。
まず、このダーガーの遺した『非現実の王国で*1』という作品は、彼が19歳の時から「書き」始められた、ということ。
この執筆期間は約11年と推測されている。
現在では挿絵の方が有名であろうが(わたしもそのように理解していた)、「本体」は全15巻15,145ページに及ぶ、未だ全容の解明されていない「歴史上最長の小説」なのだという。
ちなみに、このあたりの事実に関する記述は、マクレガーの本に依拠している。
『アウトサイダー・アート入門』(椹木野衣)も参考にしているが、ところどころ異なる記述があって、どちらが正確なのかはわたしには判断がつかないので、この記事では「ヘンリー・ダーガー研究者」と呼ぶに値するであろうマクレガーの記述の方を採用することにしている。
(先述のように)アール・ブリュットあるいはアウトサイダー・アートとして小説よりも有名であろう「挿絵」の方は、執筆の方がほぼ完了してから取り組まれたものだと推測されているそうである。
たった一人の人間が、膨大な時間をかけて「自分のためだけに」描き続けたという事実、
もっともセンセーショナルな要素として語られる、男性器の付いた少女たち−−−ダーガーは無知ゆえに男女の違いを知らなかったのだ、という言説も含めて−−−、などの独特で奇妙なモチーフたち…
だいたいこのあたりが、挿絵に対する一般的なイメージだろう。
これも先に触れたことだが、わたしもそういうイメージを持っていた。
が、実際の絵をいくつか見たところ、こうしたイメージは完全に上っ面の理解に過ぎなかったことを突きつけられた。
この作品の主題は、明らかに暴力であった。
そして、こうした形でしかそれを「語れない」という、迫力。
奇妙なモチーフばかりが語られがちかもしれないが、少しでも作品に触れるとそれよりも衝撃を受けるのは、何度も場面を超えて登場するサディスティックさ・残酷さ・グロテスクさが支配する画面だと、わたしは思う。
わたしはそれは、ダーガーが特別に異常な人間だったから(描いた)、とはとても思えなかった。
むしろ、ここに現れているのは個人の異常性などではなく、ダーガーという一人の人間の人生に「降りかかった暴力」としか思えなかった。
彼はそれを語る術を持たなかった代わりに、創作物として表現して“しまえる”という才能に恵まれて“しまった”のだと思う。
そうして生まれたのが、この『非現実の王国で』という作品なのだと感じた。
ダーガーの人生は、かなり波瀾万丈である。
詳しくは、Wikipediaなどではなく、本を直接あたることをおすすめしたい。
そこで作品と一緒に考える方が、絶対によい。
だから、と言ってしまうが、画面にはこれでもかと凄惨な場面が広がっている。
そこには「(なぜか)どうしても描かざるを得なかった」という彼の執念が写り込んでいるように思える。
それは、自分の身に起きた“運命”に対する無意識の探求というか…
だって、「完全に自分のためだけに」描いていたのだし、また、「わからないからこそ」表現の形を選ばざるを得なかったのだろうから。
ただ、今のわたしでは、それを直視することはできなかった。
見ていて辛くなってしまった。
「どうしてこの人はこんな目に遭ったのだろう?」
もあるにはあるけれど、それ以上に、
こうした“悲劇”は、ダーガーに限った話ではない、と思ってしまったのである。
全く根拠はないし、なぜそう思ったのかもわからないが、
「これは特別なことだ」とは、わたしには思えなかった。
ただ、それでもダーガーが「特別」だったのは、それを「こうして表現してしまえたこと」だと思う。
また、偶然「見つかってしまった」ことも。
話はやや変わるが、同じタイミングで『子どもの絵』(アリス・ミラー)という本も読んだ。
これは著者の自己セラピーとして取り組んだ絵画の歩みを扱った本で、その過程のうちの2年間に描かれた水彩画66点が収められている。
これも極めて個人的な作品群で、わたしはそれを見ていると、ダーガーの絵に感じた「感覚」と似た感覚に襲われた。
こちらも、見ていて辛くなる。
描かれた絵には、こういう形でしか表現することができなかった感情が溢れているようで、ページを繰る手が早くなることを止められなかった。
もちろん、ミラーはダーガーと違い“有名人”であり、いくつもの著作がある著述家である。
だから、かなり意地悪く言えば、「自説の補強」に適した作品だけを収めた、という可能性も否定できなくはない、かもしれない。
でも、そうだとしても(当然そうではないだろうが)、ここに収められている絵の持つ「他に表す術を持たなかった」とでもいうような迫力は、全く否定できないと思う。
まぁそもそも、「作品に対して読者がどのような感情を抱くか」なんてことをコントロールすることはできないので、こうした見方はあり得ないのだが。
ダーガーには元々興味があったにせよ、今のタイミングで手に取ったのは「最高」で「最悪」だった。
同じタイミングで、ミラーの『子どもの絵』を読んだということも。
これらの作品から感じる辛さは、今のわたしにはきつい。きつかった。
そういう意味では、「最悪」である。
けれど、もし手に取ったのがもう少し以前であれば
「うわ、なんだこの気持ち悪い絵」
で終わっていたとしか思えない。
だから、こちらの意味では「最高」である。
とは言え今も、「感動した」というよりも「ただ訳のわからない衝撃を受けた」であるけれど。
まぁ、感動とかできないよ〜。しようとも、したいとも思わないけれど。
最後に、わたしは「それでも、ダーガーの人生は幸福だったのではないかなぁ」と感じたことを述べておきたい。
彼の人生はいくつものひどい出来事に見舞われ、また決して恵まれたものではなかったけれど、「作品を書く/描く」という自由は常に彼の手にあった、ように思う。
それが例え、暴力によって生じた傷による「どうしようもないもの」であったとしても。
その「自由さ」が彼の人生の拠り所であり、救いだったのではないのかと、思う。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
以下、おまけあるよ。
おまけ:作品に対する感想の一問一答
Q:「男性器の付いた少女」をどう感じたのか?
A:マクレガーなどの解釈と同じで、それはダーガーの無知ゆえではないと感じた。
- ダーガーは知能に問題があった、と言われることがある(知的障害児の施設に7年間入れられているのを根拠にしているのだと思う)が、そうした説をマクレガーは否定している。わたしも説明を読んだところ、そうだと感じた。
- 挿絵における臓器に対する描写がかなり詳細で、かつ手が込んでいる。こうした人体に対して強く興味関心を抱く人間が、うっかり“性器だけ”無知でいられるだろうか?
Q:では、あなたはどう思ったのか?
A:わからない。でも、感じたことはいくつか。
- ダーガーの絵、というか彼の引いた線は、かな〜り執念の篭った線だとわたしは感じた。
- だから、彼の描いている世界は「描きたい(描かずにはいられない)ものだけで構成された世界」だと感じた。
- よって、「男性器の付いた少女」もまた、彼が「描きたいから」描いた、としか思えない。何で描きたかったのかは、知らない。わからない。
- 根拠もなく言えば、ダーガーが「そうしたもの」になりたかった、からではないだろうか?とわたしは思う。執着って、そういうもののように感じるのである。
繰り返すが、根拠はないし、そうだとしてもその理由はわからない。
Q:ダーガーの絵について、他にどんなことを感じたのか?
A:上にも書いたけれど、まず線の美しさに目を奪われた。一般的には色の扱いに対する評価が高いというが、わたしは色よりも線が美しいと思う。
Q:ダーガーはコラージュという技法を、「独自に」使っている。
A:正直な感想として、最初にそれを知った時はがっかりした。その点には。
Q:えっ?
A:だって、あんな美しい線が、なぞったものだなんて…偽らざる気持ちとして、わたしの感じた感動をちょっと返して欲しくなった…*2
でも、そもそも『非現実の王国で』はダーガーの究極の個人的作品で、冷静に考えると、この「がっかりしたわたし」の方がおかしい。だって、ある意味、世に出るはずではなかったものを覗き見させてもらっているんだから。
ダーガーさん、ごめんなさい、そして、見させてくれてありがとう。
というように、わたしの「絵とはかくあるべし」みたいな思い込みを、はからずも発見したりもした。
そしてやっぱり、あの線は美しい、という事実はわたしの中では動かない。
Q:他に言い残したことがあれば。
A:ミラー的な考え方をすると、ダーガーが暴力−−−そしてそれはおそらく、認識することができないもの−−−を受けても自他を破壊・破滅させる方向に行くのではなく、こうした表現に没頭した(/するに留まれた)のは、幼い頃に愛してくれた誰かがいてくれたからではないだろうか?と思った。
マクレガーの本を読んだ感じだけだとそれが「誰か」ははっきりとはわからないが、わたしはそれは父親だったような気がする。
だって、作品に現れているサディスティックさを見れば、ダーガーが抱えていたもののヤバさは辛くて痛いほどに伝わってくる。
それが、外に向かなかったのは、一種の奇跡であると感じる。
まぁ、一生を自分に閉じこもって過ごしたというのは、見方によっては自分に対する徹底的な破壊なのかもしれない。
でも、そうした見方と、描かれた『非現実の王国で』という作品の持つ像は、わたしには重なっては見えない。
「成功」でないことはそうなのだろうが、「失敗」であるとも、思えないのである。
参考文献
椹木野衣『アウトサイダー・アート入門』2015,幻冬社
ジョン・M・マクレガー,小出由紀子訳『ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で』2000,作品社
アリス・ミラー,中川吉晴訳『「子ども」の絵』1992,現代企画室