ナチスと動物(ボリア・サックス)について
「聖なるズー」(濱野ちひろ)の参考文献にあったので読んでみたけれど、知らないことばかりだった。
どんな本?
本の情報より。
著者ボリア・サックスは1949年ニューヨーク生まれ。人権・環境保護を中心に活動し、アムネスティ・インターナショナルなどの国際人権組織のコンサルトを努める。
この本は2000年に出版され、日本語に訳されたのは2002年。
訳者は関口篤、出版社は青土社。
本の内容は、ナチスという「人類史における未だ解明に至らない謎」を、動物との関わり合いという面から迫ってみるという試みである。
ナチスが犯した罪は人類史上最大の罪の一つであろうが、その足元で制定された「動物保護法」は意外にも、当時としては極めて最先端のものであった。
また、自然保護にも熱心で、例えば「都市部の公園の面積は倍増した(Dominick*1,p.106)」という。(p64)
しかし、それがナチスの「良い面」などと著者は捉えない。
法律の意義や功績は認めつつも、結局は
- 支配や管理という権力への執念に基づき、
- 徹底して「個」というものを認めず、
- 人や動物の生や死までも国家の管理下へと組み込むためのものであり、
- また、関わった人間や社会における「破滅や死への憧れ(後略)(Friedländer*2,p.75)」(p265)の表現であった
というような、あくまで「破壊」の一側面でしかなかったことを解き明かしていく。
感想/内容で重要な部分
ここからは、このブログに関連する部分に関する感想みたいなもの。
正直内容は重たいし気が滅入るので、読んで「なるほど」と思ったところについてだけ軽く触れる程度に。
ドイツと狼
ナチスは繰り返し狼のモチーフを好んで使用したという。
しかし、そこにあったのはあくまで「理想化された捕食者」のイメージで、それは「破壊の口実」であり、また、十九〜二〇世紀のヨーロッパにおける「自然や野生への憧れ」の文脈においてのものであった。
それに対する著者の、時に皮肉な指摘が面白い。
まず、実はナチスの時代では狼が絶滅して一世紀以上経過していたこと。
モチーフに使用していながら、ドイツにはもう狼がいなくなっていたのだという。
しかしこのことは、
- よって、狼を用いたレトリックの矛盾を指摘できるほどの経験が社会には欠如していたこと
- 絶滅したという事実は、原初の生命力のシンボルという(ノスタルジックな)意味を付与しやすくさせたこと*3
ということをもたらした。
また、ドイツは1934年に、狼に対する法的な保護を定めた。
これは近代以降の国家でははじめてのことだという。
しかし、(先述のように)ドイツには狼がいないにも関わらず、である。
ただしこのことは、将来的な侵略を見据えたものであったと著者は指摘する。
同様のことが、狩猟におけるバイソンの扱い(バイソンもまた、ドイツには生息しておらず周辺の国では生息していた)にもあったという。
狩猟獣への礼賛
著者の皮肉が極まっているのが、以下の部分である。
捕食獣への礼賛もさまざまだ。鰐(わに)や蛙や鼠やハイエナと同レベルで人間を「捕食獣」と考える人はまずいない。(p47)
この指摘はもっともだと言えよう。
捕食獣を理想化・礼賛する時に選ばれる動物のイメージは限られている。
それに唯一当てはまるのは、時に飼育の対象となる哺乳動物であると著者は指摘する。(p47)
著者の説明はここに留まっているが、これらから推測すると「飼育の対象となる」「哺乳動物」が意味するところとは
「意思の疎通が可能と考えられる」
ということだろう。
鰐も蛙も飼育は可能だろうが、意思の疎通という点では難しいと思ってしまう。
この中だと鼠やハイエナは哺乳動物であり、また意思の疎通が可能であるように感じられるが、それらは紋章や国のシンボルで好まれるような「大型、野生、肉食、純粋種」(p39)というイメージからは離れている。
私は飼育可能性が一つの基準になるということは、そこに、
暗に、対象を「飼育したい」
=「自らのものにしたい/操作したい」という欲望
を見てもいいように感じる。
よって、ここに存在しているのは
意思の疎通が可能な存在に対する操作への欲望
と言っても良いのではないだろうか?
また、自然界に存在する捕食者は「別に絶えず力闘に明け暮れているわけではない」(p47)。
人間が「獰猛」とみなす性質のほとんどは、人工的な「わざわざ培ったもの」(同)と著者は指摘する。
破滅や死への憧れ
これら二つの指摘は、ナチスに通底する「破滅や死への憧れ」と密接に関わっていると私は思う。
著者はフロイトなどを(やや批判的に)用いる程度で、ナチスの破壊衝動がどこから来るのかについての明確な言及は行っていない。
私はアリス・ミラーやアルノ・グリューンなどの主張から、ナチスに代表されるような人間の飽くなき破壊衝動の源泉は「子ども時代の抑圧」と考えるべきだと思っている。
そこから考えると、
モチーフにおける「飼育可能」という構造は明らかに、かつての「親-子の抑圧構造」
を想起させる。
また、理想化された獰猛さとは「人工的なもの」であるという指摘は、
人が憎しみや破壊衝動を抱くのは、生まれつきなどではなく「(見えなくされた)抑圧」によって生じる
という構図との対応性を感じる。
苦痛の回避
最後に、著者が指摘しているナチスの動物保護法における「奇妙な点」について触れておく。
法律の文章は無味乾燥とだれでも思う。しかし、ナチスの動物保護法ほど喜びに欠けた法律も珍しい。動物や人間に楽しみを与える表現は一切なし。あるのは苦痛の回避だけ。一方、動物に楽を与える配慮もじつにとぼしい。愛に通じる言及も甚だ抽象的な表現に過ぎない。(後略)(p186)
ナチスが、他国に先駆けて法律上で「動物を動物として扱っている」のは事実であると言う。
しかしそれであっても、そこに流れているのは愛ではなかったことをこの事実は明らかにする。
全てを安易に結びつけることは本を読んだだけに過ぎない私にはできないが、
それでもここにある「愛の欠如」「楽しみや喜びの欠如」「苦痛の回避」は、ミラーの言う「闇教育」の結果と繋がっているように感じてしまう。
愛や楽しみ、喜びといったものは世界には存在せず、
「与えるべき配慮」とは「苦痛の回避」−−−なぜなら、「闇教育」の犠牲者は無意識の苦痛に苛まされているのだから−−−
以外には想像がつかない、
そうしたことを、想像してしまう。
おわりに
この本の参考文献リストは17頁にもわたる。
これだけの膨大な資料を通して、著者はナチスを超えて普遍的なテーマを取り出す。
それは
破壊は社会にどのような姿をしてやって来るのか
ということだと私は感じた。
この本は、その一例を詳しく説明する本なのだと思う。
冒頭で、著者はホロコースト研究が因習化しつつある現状を指摘する。
そんな中で意味のある研究があるとするなら、それはきっと「破壊の姿」を捉えようとする試みのことを指すのだと思う。
しかし、それだけの作業を通して、なお
「破壊への意思はどこからやって来るのか」という問いに、私たちの社会・世界は答えを出せていない
のだと思う。
著者もまた、その問いに対する答えを持っていないことを告白している。
とはいえ私は本文中に書いたように、それにはとりあえずまずはミラーやグリューンなどを手掛かりにするしかないと思うのだが。
そしてその際には、この本が明かすような「事実」がきっと何かの役割を果たすのだと思う。
奇しくもこの記事を書き上げた日は、世界において重大な事態が起きてしまった日であった。
「かつての破壊の姿」を眺める作業を経た後に「現在進行形の破壊の姿」を見る羽目になろうとは、この本を手に取った時には想像もしていなかった。
さて、ここまで読んでいただいてありがとうございました。
とりあえず、皆様しばらくは心と体の状態にはお気をつけ下さい。
重たいテーマの本の紹介をしておいてなんですが。
でもまぁ、その辺りがどうにかなっていればどうにかはなるはずです。
それでは!
参考文献
ボリア・サックス,関口篤訳『ナチスと動物 ペット・スケープゴート・ホロコースト』2002,青土社
アルノ・グリューン,馬場謙一・正路妙子訳『「正常さ」という病い』2001,青土社
アリス・ミラー,山下公子訳『魂の殺人(新装版)』2013,新曜社
*1:Dominick Ⅲ, Raymond H. The Environmental Movement in Germany:Prophets and Pioneers, 1871-1971. Bloomington: Indiana University Press, 1992. 参考文献より
*2:Friedländer,Henry. The Origins of Nazi Genocide: From Euthanasia to the Final Solution. Chapel Hill: University of North Carolina Press,1996. 参考文献より