けいのブログ

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魂の殺人(アリス・ミラー)について

私のアリス・ミラーの一冊目。

 

 

 

どんな本?

本の情報より。

著者アリス・ミラーは1923年ポーランド生まれの(元)精神分析家、著述家。

1978〜81年にかけて、しつけや教育にひそむ暴力性をテーマにした三冊の本を刊行。それらは世界ベストセラーになったそう。

その内の一冊がこの「魂の殺人」。

 

ちなみに私はまだあと2冊を読めていないので読んでみたいのだが、どれも絶版ぽい…

 

 

先に述べたように、この本の主題は一般的には崇高で「子どものため」とされる「教育」や「しつけ」の内には実は恐るべき暴力が潜んでおり、

それがいかに子どもの「生きる力」を破壊するのか・そしてその先にはどんなおそるべき悲劇が待ち受けているのか、について。

 

この本はそのことを圧倒的な文量と研究・実例を挙げて説明している。

 

…なんだけど、ちょっと量がすごい。分厚い。あと文字が小さい上に多すぎ

なので、読むのも大変。

 

おまけに描かれる内容も衝撃的で、そういう意味でも読み進めることを苦痛に感じる人は決して少なくないんじゃないかと思う。

 

 

感想/内容で重要な部分

だけど私はこの本は広く読まれるべきだと思うし、(この本に引っ掛けて言うなら)どうしても「教育」が必要だ・するべきだ*1と思うんだったら、この本の内容を教えたらいいと思う。

学校の道徳の時間とか。

絶対できないと思うけど。

 

 

ここからは、このブログに関連する部分に関する感想みたいなもの。

 

破壊衝動はどこから来るのか

子どもが蒙った侮辱、屈辱、暴行に対する相応の反応が許されないと、この種の体験は子どもの人格の中に組み込まれ得なくなってしまい、感情は抑圧されたままになり、感情を表現したいという欲求は鎮められず、落ち着くあてもないということになってしまうのです。

無意識のうちに受けた精神的外傷をそれにふさわしい感情を込めて表現することが決してできないという、この希望を奪われた状態こそ、最も多くの人を重大な精神的危機に陥れる原因です。(p8-9、太字は本文では傍点)

 

体験された憎しみではなくイデオロギーの力によって防ぎ止められ、せき止められた憎しみこそ暴行と破壊を生む元凶なのです。(p344、太字は本文では傍点)

 

私がこの本で最も重要だと思うテーマは、犯罪・依存症・精神疾患などの破壊的なできごとの根源は子ども時代の抑圧にあることを明らかにしている部分。

 

一応補足しておくと、犯罪/依存症/精神疾患はもしかすると一見異なる領域に属するできごとに思えるかもしれない。

けれどこれらは破壊の対象が他者か/自身か、あるいはその両方か、にすぎない。

 

ゆえにそれらを引き起こす原因は同じものであるという。

それが、子ども時代の抑圧。

 

 

その抑圧とは、簡単に言ってしまうと

感じること、つまり感情の禁止

 

特に、「しつけ」や「教育」の名で行われる暴力−−−例えば暴力を振るう、恥をかかせる、馬鹿にする、嘘をつく、など−−−

に伴う怒りや悲しみの禁止が、後の破壊衝動の源泉になる、と著者は主張する。

 

 

人間はひどい目にあっても、それに対して「ちゃんと」泣いたり怒ったり悲しんだりすることができれば、いずれその経験を受け止め、理解し、場合によっては赦したりすることができるようにできている、らしい。

 

しかし、この泣いたり怒ったり悲しんだり、という部分が「ちゃんと」行われなければ、その怒りや悲しみはその人の中で無意識の中でいつまでも残り続ける。

 

そして、それらがいつまでも発散・表現できないとなると、代償として生贄が探されることとなり、

他者が選ばれれば犯罪や虐殺として表現され、自身に向けば依存症や精神疾患として表現される、となる。

 

子どもに対する抑圧

具体的な場面に目を向ければ、例えば体罰を考えてみればわかりやすい。

 

体罰で加えられる痛みに対する反応および反抗は許されていないのが「普通」である。

体罰は「愛ゆえに」「仕方なく」下されるものである(とされている)ため、受けた側が感じた屈辱や痛みは、沈黙するか、時にはあろうことか感謝しなければならない。

 

 

しかし、少し考えればわかることだが、痛みや屈辱に色が付いているわけはない。

痛みに対する“正しい”反応は涙であり、屈辱に対する“正しい”反応は怒りや悲しみである、と著者は言う。

 

ただし、「しつけ」や「教育」の名の下では、この“正しい”反応は認められていない。

これが「感じることの禁止」である。

 

が、認められていないからといって生じた感情が消えてなくなるわけではない。

先に述べたように、事実はむしろその逆であり、認められていないゆえにそれは無意識へと追いやられ、いつまでもくすぶり続けることとなる。

 

よって、受けた痛みや屈辱を「ちゃんと」悲しんだり怒ったりすることができなくなる。

そうなると、人はそのできごとからいつまでも抜け出すことができなくなる。

 

すると、「カッとなって」人を傷つけてしまったり、逃避として何かに依存したり、わけのわからない不安となって精神の不安定さを生み出すこととなる。

 

 

見ず知らずの他人に殴られたら、誰だって泣いたり怒ったりするだろう。

そこで黙ったり、ましてや感謝したりなんかしたら、普通はまず心配されるか、場合によってはおかしい人だと思われるはずである。

 

 

なぜ親や教師といった大人が「教育」や「しつけ」としてもたらす痛みだけは、その逆になっているのだろうか?

 

 

その問いに対する応答も、この本では用意されている。

それはその「大人たち」もまたかつての「子どもたち」であり、この抑圧の犠牲者であったからである。

 

 

「教育」や「しつけ」を必要としているのは大人
  1. このような教育は結局根本的には子どもの幸せを願って行われるものではなく、教育する側の人間の権力および復讐欲を満足させるために行われているのであり、
  2. その教育によって痛めつけられる一人一人の子どもだけでなく、もしかするとその結果、私たちすべてが犠牲としてその教育から被害を蒙る可能性がある。(p320、太字は本文では傍点)

 

「大人たち」が「教育」や「しつけ」を必要とするのは子どもたちのためでは決してなく、ただ大人たちがそれを必要としているからだと著者は言い切る。

 

なぜそれらを必要とするのかといえば、「教育」や「しつけ」というものが、大人たちが「かつて奪われたもの」を取り返すためにあまりにも都合がよく、そして、何より大人たちの復讐のためであると繰り返し述べられる。

 

 

「大人たち」もかつて「子ども」であり、彼ら彼女らもまたそれと気付かれないように「感情の禁止」をされ続けてきたわけである。

世代のことを考えると、その禁止は、むしろ現在よりひどい形であったかもしれない。

 

例えば、著者によると、第二次世界大戦以前のドイツではむしろ「そうした教育」こそが「理想の教育」としてもてはやされていたと言う。

現在では考えられないようなおぞましい「教育用の器具」が開発されたり、教育書では明け透けに『「教育」の目的』が語られたり、など*2

 

 

そうして育ってきた「大人」が「子ども」を目の当たりにすると、そこではじめて「自分が何を奪われてきたのか」を(無意識で)発見する、と著者は言う。

 

そこで多くの人は、「かつて奪われたもの」を取り戻そうと、「子ども」に対する戦い−−−それは、かつて戦うことのできなかった大人に対する戦いであり、正当化や自己防衛であり、復讐である−−−を始める、これが子どもに対する抑圧の根っこである、というわけである。

 

 

「教育」や「しつけ」は、その復讐を正当化するのに都合がよいものである、と著者は言う。

「子ども」から尊厳を奪うあらゆる行為−−−ただし、それは全て「大人たち」がかつてされてきたことそのままである−−−は「愛ゆえに」と、賛美される行為へとすり替えられ、「子ども」がそれを発見することはできなくなる。

 

こうして「大人」はかつての復讐に乗り出し、子どもの魂は殺されることとなる。

 

 

復讐は繰り返される

この本では、反復強迫という言葉が何度も登場する。

 

調べるとこれはフロイトの提唱した言葉のようで、(私は精神分析は完全にズブの素人なので間違っている可能性があるけど)

簡単に言えば、過去の解消されていない「ある関係」を、代わりに行動として(それが不愉快な状態や行いであっても)強迫的に繰り返し表現してしまうこと、を指しているようである。

 

訳者あとがきによると、著者はフロイトを結構批判しているようで、なので同じ意味で使用しているかは私にはわからない部分があるけれど、意味としてはそんなに外れていない*3と思うので、この記事でもそうした意味で使用する。

 

 

ここまでで書いてきたように、他者、自身、もしくは社会に向けられる破壊・憎しみは、衝動そのもの(=体験された憎しみ)がなすものではなく、

その衝動が「抑圧され」「表現できないことによる」憎しみ(=せき止められた憎しみ)がなすものである。

 

 

ここに、反復強迫という概念が関わってくることになる。

その「せき止められた憎しみ」の表現のされ方は、反復強迫的であると著者は示唆する。

 

 

その実例として、著者は3人の人生を取り上げる。

薬物依存症の若い女の子、何人もの少年をターゲットにした殺人者の青年、そして虐殺者として、ナチスの総統であったヒットラー

 

ここも本当は触れたいけれど、長くなりすぎるので割愛。

 

 

なので雑にまとめるけれど、要は「人はやられたら同じことをやりかえす」ということである。

ただし、その「やりかえす相手」は「やられた相手」とは限らず、その破壊の規模も「同じだけ」とは限らない。

 

というより、やられた相手にやり返せないからこそ、その破壊は限りのない凄惨なものとなる。

 

 

著者がここまで書いてきたような「子どもの抑圧」をめぐる構造に警鐘を鳴らすのは、精神分析に携わってきた人としてだからだけではなく、

この仕組みゆえに、もたらされる破壊は社会全てに降りかかり得るからでもある。

 

それをヒットラーの例は最悪の形で証明していると言い、

 

大量破壊兵器がいくつも存在する現在の世界では、それに対する歯止めは、そうしたものを発達させざるを得ず、また、それを使用したいと望む心理に潜む構造に目を向けるしかない、と言っているのである。

 

 

おわりに

ヒットラー(およびナチスドイツ)の例は他にも、全体主義にすすんで組み込まれていく人の心理、あるいは構造についても明らかにしている。

 

 

「感じること」は生きていくことのよすがであるため、この喪失は主体性(自立性)の喪失を意味する。

 

ちなみに、著者は「喪失」ではなく、より救いのない「生まれた時点から奪われているので、そんなものは最初から存在しなかった」なんて表現をしている…

意図を歪めるつもりはないけれど、わかりやすさなんてものを言い訳に私は日和ってしまっている

 

 

そうなると、その喪失した人に残された道は、与えられた規範に対する完全なる適応のみということになる。

 

従順のみが生き(残)る術であるので、命令は命令でありさえすればそれでよく、こうしてかつての「大人」によく似た振る舞いの人物が現れ、そのよく似た振る舞いで「命令」を下せば、

それだけで人はすすんで、熱狂を持って全体主義体制に組み込まれていくこととなる、と言う。

 

ここに知性や知識の有無なんてものは関係なくヒットラーを支持した「知識人」の多さがそれを証明していると著者は言う)

自らの「感情」を生きることができているかどうかが、全体主義なるものへの接近/抵抗を決めるのだと言う。

 

 

このことは、ナチスに限らず、現在のどこかしこでも見られる構図だと私は思う。

 

 

この記事を書くにあたって、少しネットで他の人の書評や感想を読んでみたけど、この本のテーマをどこか「遠い国の」「終わりつつある(あるいは、終わった)話」のように書いているものを散見した。

けれど私は全くの逆で、「どこの国でもある」「全く終わっていない話」だと思う。

 

著者も、残念なことにドイツに限らず、スイス、あるいは他の国でもおそらく普遍的なものだろうという見立てを示している。

 

 

もしこれが「終わった話」であるなら、それはこの本の考え方が世の中に広まったことを意味するはずだけれど、そんなことは寡聞にして聞いたことがない。

 

この本は世界的ベストセラーのはずなのに、読んだことのある人にリアルであった試しなんかない。私の交友範囲が極めて雑魚なのもあるけれど

どこで誰が読んでいるんだろう…?

 

 

少し話が逸れてしまった。

 

この本はかくも絶望的な内容が並ぶけれど、希望の面もしっかりと示されている。

私が思うにそれは、

  1. 生まれながらの悪人や、生まれながらに邪悪な人は一人も存在しないこと
  2. 憎しみは「ただどこから来たのかを理解し」「ただ体験する」ことさえできれば、自然と創造的なものへと形を変え得ること
  3. 「体験された憎しみ」は「せき止められた憎しみ」とは違い、他のものが取って代わる可能性があること
    • 2、3より、つまり、「体験された憎しみ」は怒りや悲しみに昇華することができる可能性があること
  4. 「感じること」=「生きる力」というものは強靭なもので、いくら奪われていたとしても、邪魔するものさえなくなれば、ちゃんと勝手に働き始めること
  5. 誰か一人でも、子どもの側に立ち、子どもの感情に共感し尊重してくれる人がいれば、「生きる力」は守られ得ること。ただし、それは同時に、子どもにとってそうした人が絶対的に必要であることも意味する。

 

などである。

まとめると、人が人らしくいることができれば(そして、それはできるのである)

それだけで世界は平和に近付いていく、ということになるのだろうけど、このメッセージの持つ意味の何とシンプルで何と力強いことか。

 

そして、何と重いことか。

 

 

あと、著者は、善悪を明らかにするスタンスを徹底的に拒否する。

例えば、折に触れ、「大人が悪い」と言い切ってしまわないことを不満に思う読者もいるかもしれない、などと書いている。

 

この姿勢はすごく信頼できると思う。

 

一つは、善悪や倫理の押し付けは何ら「教育」なるものと変わらないということ。

 

一つは、原因と根拠を示すことに徹していること。

それは、上で挙げた『憎しみは「ただどこから来たのかを理解し」「ただ体験する」ことさえできれば、自然と創造的なものへと形を変え得ること』と繋がっている。

 

著者は読者に対し、自身で気付くことを促すのに注力している。

なぜなら、苦悩や憎しみと向き合うには「気付く」、まずはそれだけでよいのだから。

 

まぁ、これらのせいで内容は丁寧だけど複雑かつ迂遠となり、

よって、読むのがとても大変な本として仕上がっているわけでもあるが…

 

 

そうそう、そして最後の一つが、「大人」もまたかつての「子ども」だったから、であろう。

「大人」が「主体性を喪失せざるを得なかった」のは、そうせずには生き延びることができなかったからであると著者は言う。いわば、「仕方なかった」のである。

 

とはいえ、「仕方なかった」からという理由で著者は復讐を肯定したり減罪したりはしない。

それは

2. 子どもが受けねばならなかった運命に同情し、共感することは、その子どもが成人の後に行った残虐行為の評価に影響をあたえるものではないこと(後略)

(中略)

7. 真の感情を込めた理解は、安っぽいセンチメンタルな同情とは違うこと。

(p257-258、太字は本文では傍点)

 

と表明しているように、「仕方ない」と、同情・共感といった「理解」は異なる次元に存在していることを、極めて冷静に示す。

ここでも著者は安易な判断基準を持ち込むことを拒否する。

 

 

 

 

これで一応、この本について私の言いたいことはひとまず言い切ることができた。

 

まだ、この抑圧は乳幼児期の時点で既に始まっている(だから、その痕跡の発見は極めて難しい)とか、

分離と投射(これすごい重要!)とか書けていない部分も多いけれど、

この辺は正直私の手には負えないところもあるので、誰か他の方の書評を読むとか、読者の方が自分で読んでみてください。

 

 

ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

もし興味が湧いて手に取られることがあったら、嬉しく思います。私には一銭も入ってこないけれど、ね。

 

 

そしてよかったら、ぜひこのブログの他の記事も読んで見てくださいね。

 

 

それでは。

 

 

 

 

*1:ちなみに、アリス・ミラーは一切の介入を放棄し子どもを放任せよと言っているのではなく、大人が子どもを尊重し支えることは必要と言っている。

ただし、それは現在に続く「教育」「教育学」ではなし得ない(有害とまで!)と言っているだけである。

*2:ただし、それらが姿を消した現在を指して、著者は「そうした教育」が消えたわけではなく、巧妙化しただけと述べている

*3:というか、それがどこからやってきてどう生じるのか、をどう捉えるのかが著者とフロイトでは違う、のだと思う